空港で車に乗り換え、街を抜ける。トランクには相棒のキャディバッグ、ボストンにはこの日のために用意したシャツが2枚。ティオフの時間にはまだ間があるからのんびり行けばいい……。それはわかっているけれど、頭の中ではとっくにドライバーを何度も振っている。このわくわくする気分をもう何百回経験しただろう。
35年間シングルハンディを維持したという作家、夏坂健さんは北極圏から南米まで、世界中を訪ね歩いた正真正銘のゴルフの旅人だった。
いまから十数年前のこと。スコットランドの名門「グレンイーグルス」の54ホールに宿る豪快な魅力に取り憑かれた私は、夜明けから日没までボールを打ち続けて熱狂の5日間を過ごしたことがある。(日本経済新聞社刊『ゴルフがある幸せ。』より)
旅先で地元ゴルファーと触れ合い、酒を酌み交わすのが常だったという夏坂さん。以下は、長年通い続けていた阿寒カントリークラブのメンバー氏による証言である。
「夏さんが来ると、それを聞きつけたゴルファーが集まってきて話を聞かせてもらうんだ。外国で経験したことやゴルフコースのこと、旅先で出会った人のこと。それはおもしろくて、みんな喜んで聞き入っていたよ。中には有名な作家とは知らずに聞いていた者もいたと思うがね(笑)」
話の主は床(とこ)ヌブリさん。アイヌ木彫の第一人者で、2つ年上の夏坂さんとは家族ぐるみの交流があった。年に何度も夏坂さんが床さんの工房を訪れてはゴルフ談義に花を咲かせ、そのまま泊まり込んで原稿を書いては一緒にコースに出る。そんな付き合いが40年以上も続いたという。
「『腕前は相変わらずだがマナーは覚えたようだね』と、夏さんはそう言って笑っていたよ」ラウンド中、マナーを褒めてくれたことはいい思い出と、床さんはとても嬉しそうに話してくれた。
取材旅行に出ると、つとめて海外の練習場をのぞくようにしている。コースとは異なり、そこには思いがけない発見があるからだ。
ある時の阿寒カントリークラブ会報に掲載された『随筆 世界の練習場風景』はこんな出だしで始まる。夏坂さんはそのうち、旅の話、ゴルファーの話、歴史の話を数年間にわたり寄稿するようになったそうである。
ゴルフの旅話や思い出話は、ゴルファーだけに許された愉しみに違いない。かつて名手たちが挑んでは数々の伝説を残していった、あのホールをプレーしたい。同じ景色を眺めてみたい。そんな思いを実現させてスコットランドを旅した人がいた。
ゴルフと釣り、両方への思いが募り、夜明け前に沢に分け入り釣り糸を垂れ、その足でコースに向かい18ホールをまわる。そんな生活を満喫した人がいた。
また、ある夫婦はゴルフ旅の帰り道、都内に立ち寄って美術館巡りをし、お気に入りのレストランで食事をするのがいつもの楽しみになっている。
ゴルフがあるから旅に出る。ゴルフがあったから出逢えた景色、知り合えた人達がいる。コースへの思いが募ればどこへだって出かけて行けるのがゴルファーだ。
次回から各界のゴルフの旅人達に、世界各地で経験したゴルフと旅について語っていただこうと思う。ゴルファーによるゴルファーのための、旅のちょっといい話。ご期待ください。
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- 夏坂 健さん(1934-2000)
- 翻訳家・作家。シングルでもあった自らの体験と内外の厖大な資料をもとに紡ぎ出されるエッセイは機智とユーモアに溢れ、”読むゴルフの楽しさ”という新境地を拓いた。
- 床 ヌブリさん(1937-2014)
- 彫刻家。阿寒の大自然の中でアイヌ民族の世界観をテーマに木を刻み、国内外で多彩な作品を発表。アイヌの文化の伝承と普及に指導的な役割を果たした。
- 阿寒カントリークラブ
- 名匠・富沢誠造の設計による、まりもコース、丹頂コースと、土肥勇が手がけたピリカコースの27ホール。2つの阿寒岳が眼前にそびえるダイナミックなロケーションがゴルファーを魅了する。プレー中はエゾシカやタンチョウが姿を見せることも。
Pickup Item
旅先に連れ出すモノほど、自分のお気に入りにしたいもの。列車で乗り合わせた紳士や、老キャディと話が弾むかもしれません。ティグラウンドに帽子を押さえながら上がる姿も映画のようで様になりそうですね。