2019.3.11

[vol. 014]

お弁当ハンターの美味しい旅


旅するひと = 阿部 了あべ・さとる

写真家。1963年東京都出身。国立館山海上技術学校卒業後、気象観測船に4年間乗船。その後、シベリア鉄道で欧州の旅に出て写真に目覚め、立木義浩氏の助手を経て独立。手作りのお弁当と食べる人のポートレートを撮影する旅を始め、2007年からANA機内誌『翼の王国』に『おべんとうの時間』として発表。現在も連載中。書籍『おべんとうの時間』シリーズは4巻まで刊行。18年には写真集『ひるけ』(木楽舎)も。NHK『サラメシ』にお弁当ハンターとして出演中。

初めての南米大陸

日系人による最初の入植地、パラナ州カンバラ。1日のうちに四季があると言われるほど寒暖の差が激しく、コーヒーや綿花の栽培が盛んに行われた。現在はブラジル日系人口の1割に当たる約15万人が同州に暮らし、世代は5世・6世に達している。

雑誌や広告の撮影で、そして、お弁当ハンターとして1年の半分は旅に出ている。お弁当と、それを食べる人のストーリーを追い続けて20年近くになるが、さて、自分が旅先で食べたものはどうだったかと振り返ってみると、特別に思い出深い食事がふたつあった。そのひとつめはブラジルで食べたステーキだ。2008年、移民100年にあたる年にゴルフ雑誌の取材でブラジルを旅した時、ゴルフ場で食べたステーキが忘れられない。

その巨大な肉にありつくまでの道のりは本当に長かった。取材に同行するライターさんとはサンパウロで待ち合わせの1人旅。羽田からニューヨーク経由で、フライトだけでトータル24時間。ニューヨークからサンパウロまで12時間もかかるなんて知らなかった。機内食を含めてあれやこれやと10回くらい食べ、シートに縛り付けられ続けるうちに、足の感覚がなくなっていくのがわかった。

こちらは日系人によるゴルフ発祥の地、アルジャ・ゴルフクラブ。開場時、クラブハウスだった建物はその後改装され、未来のゴルファーを育成するキッズスクールの施設として使われている。

都内の自宅を出て丸2日。サンパウロのグアリューリョス空港にようやく到着すると、ガイドをしてくださる日系人の方の出迎えを受け、すぐさま車でゴルフ場に向かう。初めて南米大陸に降り立った実感も感動もそこそこに、辿り着いたのがアルジャ・ゴルフクラブだった。1965年の開場で、サンパウロ近郊でも歴史あるゴルフ場のひとつだ。設立メンバーの1人でもある会長兼支配人の近澤宗貴さん(当時。現・日系ゴルフ連盟理事長)がにこやかに出迎えてくれた。

ここで翌日から行われるのが、移民百周年記念ゴルフトーナメント。2週にわたってこのアルジャをはじめとする3コースで開催、数百人が出場する大規模イベントで、日本から高橋勝成さんと生駒佳代子さんも参加してプロアマ大会やレッスンを行うことになっている。

ブラジル全体でみるとゴルフはまだマイナーなスポーツで、僕が行った時はあの広い土地に100コースくらいしかゴルフ場がなかった。その後、オリンピックもあって20数コース増えたらしいが、歴史あるゴルフ場の5つに1つは日系人が造ったか、あるいは経営しているのだと聞かされた。

アルジャ・ゴルフクラブは初期のメンバーが開墾して完成させた手造りコース。7~8月頃にはコース内の桜が咲き、お花見ゴルフも楽しめるそうだ。グリーンフィは165~275ブラジル レアル(約5000~8000円)。

ブラジルの人達は人懐こくて、明るくて、そしていつも賑やかだった。治安は決していいとは言えず、僕達も不用な外出は避けるように言われて少し緊張したけれど、大自然の中のゴルフ場で皆さんと触れ合っていたらそんな緊張感もすぐに消えた。

さて、アルジャ・ゴルフクラブのハウスに到着した僕は、先乗りしていた勝成さんとの挨拶もそこそこにレストランに通され、「ステーキがいいと思うよ」と勧められるままサーロインステーキをオーダーすることになった。

長旅の余韻が未だ残る体で待つこと暫し。運ばれてきたのは、これは象の足か? というくらい超ビッグサイズのステーキだった。あれほど巨大な肉料理はあとにも先にも見たことがない。しかもそれが実に旨いのだ。その後も滞在中は街のレストランでシュラスコを食べたり、恐れ多くも大使館公邸の食事会にお呼ばれもしたけれど、ゴルフ場で食べたステーキはピカイチの美味しさだった。

ブラジル南部、パラナ州の高原の町、モヘチスにて。州都クリチバと海岸地域のパラナグアを結ぶ山岳鉄道沿いに位置し、サトウキビの蒸留酒『ピンガ』の名産地としても知られている。

第二の故郷ポルトガル

リスボン旧市街のメインストリート、アウグスタ通り。レストランやショップが軒を連ね、いつも観光客で賑わっている。奥に見えるのは凱旋門『勝利のアーチ』。門の上は展望台になっている。

ポルトガルは不思議な縁を感じる国だ。1985年に初めて行った時から何だか初めてのような気がしない。遥か遠い先祖どうしできっと何かつながりがあったに違いない。

最南端に位置するアルガルヴェ地方は温暖な気候で雨が少なく、日照時間がアメリカのカリフォルニア州よりも長いと言われている。まさにリゾートゴルフにはうってつけの場所で、シーサイドからインランドリンクスまでタイプは様々。ヘンリー・コットンやアーノルド・パーマー、ロナルド・フリームが手がけたコースもあり、ヨーロッパ各地はもちろんアメリカからもゴルファーが訪れる。

きれいなビーチと漁港のある町ポルティマォンに滞在し、カメラを持って街やゴルフコースに出かけると、朝、港の近くのベンチで見かけた老夫婦が、夕方、僕が戻って来た時もまだそのベンチにいる。ここは時間の流れ方が違う。それだけでなんだかうれしくなってくる。

あちこちの路上でバーベキューコンロを置いてイワシを焼いている。辺りにたち込める煙と香ばしい匂いが、また来たことを実感させる。

ポルトガルでの食の楽しみは魚料理だ。特にイワシはみんなが大好きで、最もポピュラーな炭火焼は、オリーブオイルさえかけなければ日本の焼き魚と変わらない。

ポルトガルでは、これをパンにはさむ。地元の皆さんは器用に骨だけを残して食べるが、僕はあまり上手にできなかった。他に、調理方法が100くらいあると言われるポルトガル人のソウルフード、バカリャウ(タラの塩漬けの干物)も絶品。ナザレという漁師町に行けばアジやイワシの美味しい干物も手に入る。

今から10年前の2009年6月、ポルトガルの守護聖人を祝う聖アントニオ祭(別名イワシ祭り)の撮影でリスボンにいた。夏の訪れと聖人を祝い、恋人と愛を語り、季節の恵みに感謝する祭りだ。

イワシの煙に包まれる街で、僕もリスボンっ子たちと共に夜通しワインを飲み、イワシを食べた。岩塩を降って炭火で焼かれたイワシに、オリーブオイルを回しかけ、レモンをぎゅっと搾って食べるのがポルトガル流。身が引き締まって、脂も程好く乗ったイワシ、5匹なんかあっという間。「内臓もぷりっとして美味いね」とリスボンっ子たちに言うと、内臓を食べる習慣がない彼らは”信じられない”って顔をしていた。

なんで、「イワシ」なのか?こんなエピソードがある。リスボンで生まれた聖アントニオはモロッコ、イタリア、フランスに渡って布教活動を続けたが、誰も彼の話を聞いてくれない。仕方がないので海に向って説教をしたら、魚たちが集まってきて教えを熱心に聞いてくれた。その光景を見た人々が、ようやく彼の偉大さに気づいたというもので、その魚がイワシだった。

ポルトガルの夏の風物詩、イワシの炭火焼。香ばしい匂いと共に街がソワソワし始めるリスボン。リスボンっ子たちに「生でも美味いよ、日本人は生でよく食べるよ」と言うと、またまた、信じられない顔をされてしまった。

路上でもレストランでも家庭でも、イワシは炭火で焼くのが一般的。ポルトガルの国民食、Saldinhas Assadas(サルディーニャ・アサード=イワシの炭火焼き)。

1998年末に初めて妻と一緒に行った時のこと。僕は旅先でいつもするようにカメラを持って1人で出かけ、妻とは2時間後にリスボンのホテル近くの公園で待ち合わせをすることにした(新婚旅行だったのに)。

待ち合わせの時間に公園に行くと、妻が初老のポルトガル紳士と話をしている。傍らにはお孫さんだろうか、小さな女の子もいた。「すぐそこに住んでいる者です。お茶を飲みにいらっしゃいませんか?」とその紳士は僕達に言った。もちろん初対面だ。

身なりはたいそう立派だし、かわいいお孫さんもいる。怪しい感じはなさそうだと歩いて付いて行くと、そこは海を見下ろすお城のような屋敷。執事と思しき人が僕と妻にシャンパンを注いでくれた。妻と「すごいところに来ちゃったね」と目を見合わせていると、ちょうどクリスマスシーズンで集まっていた娘、息子の家族もいて、娘さんの彼が有名ミュージシャンというおまけまで付いて、びっくりすることだらけだった。

彼の名はマリオさんといった。銀行家だった。「日本に帰る前にもう一度、今度はぜひディナーにいらっしゃい」とお誘いを受けた僕達は2週間後、それはおいしい食事とポルトワインをごちそうになった。その後、マリオさんがマカオで仕事があった時に日本に立ち寄ってくれて東京で一緒に食事をしたり、僕が仕事でポルトガルに行った時に再びご自宅を訪問したり、といったこともあった。

ブラジルにサンバがあるように、ポルトガルにはファドがある。それは民族歌謡で、ファドとは運命、または宿命を意味し、それを歌に込めるのである。リスボンを歩いていると、バーや街中で情熱的な歌声が聞けるのだが、マリオさんとの出会いを振り返ると、あの時のことを言葉にして歌いたい今日この頃である。ポルトガルのミュージシャンでマドレデウスというグループがいるが、僕は彼らの『海と旋律』という曲が大好きである。

旅先で偶然出会ったマリオさんの家。リスボンの街を見下ろす丘の上の邸宅は、インテリアもテーブルセッティングも優雅そのものだった。 Copyright © 2019 Satoru Abe

Find Information
ARUJÁ GOLF CLUBE(アルジャ・ゴルフクラブ)
1961年、サンパウロに住む日本人コミュニティによって設立。日系人にとってのゴルフ発祥の地のひとつとされている。コース内は松や桜、ヤシの木が彩り、池やバンカーも多彩。ブラジルの主要競技がたびたび開催されている。
Estrada dos Vados, 2000 Arujá / SP.
18H 7020Y P72
開場/1961年
VisitPortugal
ポルトガル政府観光局の公式サイト。旅とゴルフの情報はこちらから
Pickup Item

食事のコラムを読むと食欲が湧いてきますね。さらに、じゃ自分で料理したら…キッチン周りのインテリアも…と空想が広がります。