『ファイナル・ラウンド』
ジェームズ・ダッドソン著、大地舜訳
初めてこの本『ファイナル・ラウンド』を読んだとき、アメリカはなんて素晴らしいゴルフの物語を世に送り出すことができるのだろうと感激した。日本のゴルフ本といえば「ああ振れ、こう振れ」のレッスン本ばかりで、嘆息をつくことばかりだったからだ。
そして今、CLUB ONOFFにゴルフ本に関するエッセイを執筆させてもらうことになり、もう一度、この本を読み返してみたいと思った。ストーリーはわかっているものの、読み終えると再び大きな感慨を得るとともに、初めて読んだときにはわからなかった奥深いゴルフの愉しさを味わうことできた。リアルなゴルフプレーと同様、やればやるほどわからないことがわかる喜びに浸ることができたのだ。
この本は父と息子のゴルフ物語である。まずはプロローグだ。ゴルフライターである私は38歳のある日、トム・ワトソンにインタビューする。ゴルフ人生で最悪と最高の瞬間は?その答えは予想だにしないことだった。
まず、最悪の瞬間は?と聞かれたワトソンは「子供からサインをせがまれ、それを無視したときのことだ」と答えるのだ。その子の父親に呼び止められ「あんたは最低の人間だ。うちの息子はあんたの大ファンだった」と言われたことを赤裸々に語ったのである。
では、最高の瞬間は?と問われたとき、ワトソンはニクラウスと死闘を繰り広げたターンベリーでの全英オープン優勝や、ペブルビーチで奇跡のチップインで全米オープンに優勝したときのことを語るかと思いきや、まったく別のことを言う。
「父がいつものゴルフ仲間二人と一緒にプレーしようと誘ってくれたときだ。強烈な体験だった」
ワトソンは父レイからゴルフを習い、上達して世界トップの選手となった。ワトソンはこうも言う。
「父は私にとって非常に大きな存在だった。頭の中でいつも父の声がするんだ。『頭を動かすな、いいスイングをしろ』とね」
このワトソンの言葉を聞き、この本の著者である私は自分の父親を思う。彼もまた父親からゴルフを習い、一緒にゴルフをしてきたからだ。
ゴルフというスポーツは他とは異なり、とても父との絆が深いものだ。ワトソンや著者だけでなく、アーノルド・パーマーは地元クラブのプロであった父ディーコンから教わったし、タイガー・ウッズもグリーンベレーの隊員だった父アールから猛特訓を受けて育った。松山英樹もトップアマであった父幹男さんの影響で4歳からゴルフを始め、笹生優花は父正和さんから8歳時にゴルフの手ほどきを受けた。彼らチャンピオンだけでなく、父の教えは我々アマチュアでも永遠のものとなる。なぜならば、その教えはゴルフのことだけでなく、仕事や人生に関わることになるからだ。
この本の著者においても同様だった。著者は父から10歳のときにゴルフを習い、13歳でコースデビューを果たす。上手くプレーができなくてふてくされる息子に向かって父は次のように言う。
「コースに横たわりなさい。そうすればすべてが見える」
芝生の上に寝て空を見上げれば心がやすらぎ落ち着くと、父は教えたかったが、息子は何でこんな恥ずかしいことをしなければいけないのかとすねた。しかし、成長するにつれて父の教えが深いところに根ざしていたことがわかるのだ。
ワトソンから父のことを聞いた著者は自分の父親とゴルフの旅に出ようと考える。それは父が80歳となり老いてきたからだ。そのゴルフの旅は父がゴルフを覚えた英国となるが、それを思い立ったときは、その旅が父と子の最後の旅になるとは知るよしもなかった。なぜなら、そのゴルフ旅行が実現しようとしたまさにそのとき、父は癌が再発し、余命2ヶ月と宣告されたからだ。
父と息子のゴルフ旅
著者である私は父を「謎の楽天家オプティ」と呼んだ。オプティとはオプティミズムのことで楽天主義を意味する。困っている人があれば見過ごすことができずに手を貸し、辛いことがあっても笑って乗り越えようとする父を子供の頃から見てきた。癌が再発し、余命が宣言されても、父はいつもと変わらずに笑顔で過ごした。ゴルフでも常に笑顔で「コースで不快な顔をすることはまったくなかった」と言われていた。
ゴルフ旅の前に父は言う。
「不平を言わない。疲れた顔を見せない。楽しく笑い、ボールを打ち、時には女王陛下の貨幣を少しずつ取り合う。しかし、私が帰ると行ったら、私は帰る。理由は聞くな」
こうして英国からスコットランドへの名門コースを回る旅が始まる。最終目的地はセントアンドリューズだ。
まずはロンドンに入る。予定していたサニングデールGCは遅くなってプレーができず、ハイドパークにあるパッティングコースに出向く。父と息子は早速女王陛下の貨幣を賭けてパットを行う。父はショートアイアンとパットに長けたゴルファーで80歳になってもハンデ22をキープ。対して息子は飛ばし屋だが、パットが苦手ときている。
彼らは親子だが、かれこれ30年以上も一緒にプレーを楽しんできたゴルフ仲間でありゴルフ友達である。つまり親子でありながらいつも対等なのだ。ゴルフではゲームをすれば常にスコアを争うことになる。ハンデを付ければ老若男女対等にプレーできる。社長も平社員もなく、先輩後輩もない。もちろん親子であっても対等に戦うことになる。そこに友情が生まれる。ゴルフというスポーツ最高の魅力の一つである。
オプティとのパッティングゲームはまたしても父の勝ちとなる。父は途中で息子が7歳の頃に教えたパットの心得について語る。
「頭を動かさず左手リードで、あとはPLKだ」
PLKとは「パット・ライク・ア・キッド」の頭文字である。つまり、「子供のようにパットしろ」ということ。大人になった筆者はレッスン本に書かれているような打ち方にこだわって1mさえ怖がった。しかし子供のように、カップに狙いを定め、ただ打つだけにしたら、カップインできるようになったのだ。そう自分の小さな娘のように。
勝負に敗れた息子は父をロンドンで最も由緒あるレストラン、ルールズに連れて行った。
父は息子にこんなことも語ってもいる。
「ゴルフは難問解決を楽しむ究極のゲームだ。1打毎に直面する難問をどう解決するか。それが本当のゴルフの喜びだ。それは仕事や人生においても同様だ」
難問は解決できないことも多い。ミスを重ね、傷心し、絶望さえ味わう。しかしミスを重ねることで精神は鍛えられ、やがては問題解決の方法も見つけ出すことができるようになる。だからゴルフは奥深く面白いのである。
ロイヤルリザムからラウンド
父と子の最後のゴルフ旅、最初のラウンドはロイヤルリザム&セントアンズだ。1926年にボビー・ジョーンズが大逆転で初めて全英オープンを制し、1979年にはセベ・バレステロスがドライバーを曲げて駐車場に放り込んだものの、ミラクルショットを放って全英オープンに優勝したコースだ。筆者の父が戦争中に駐屯した基地のすぐそばにあり、ゴルフを覚えたコースである。ここでのプレーは息子が父にハーフ7打のハンデを与えて勝負した。ここでも父が勝った。
その翌日は息子だけがプレーした。素晴らしいスコアであがり、意気揚々と父が待つパブに行くと、そばにいた地元の人から驚く話しが飛び出す。父が基地にいたときに米軍の爆撃機が墜落して村の子供を大勢死なせたというのだ。一緒に墓参りをし、この悲劇によって父が「謎の楽天家オプティ」になったことを知る。父が息子に言う。
「人生が我々に約束してくれる唯一のものは苦痛だ。喜びを生み出せるかどうかは我々次第だ」
父は子供たちを死なせたことの苦痛を、楽天家になることで乗り越えようとした。戦争の悲惨さを笑顔で克服しようとした。贖罪をすることで生きることの喜びを見いだそうとしたのだ。そして、そこにゴルフがあった。
「ゴルフをすれば悩みが消える。希望が見えるのだ」
著者が学生時代、最愛の彼女を暴漢のピストルによって亡くしたとき、父は敢えてゴルフコースに連れて行った。その本当の意味がわかった瞬間だった。
父と息子のゴルフ旅はロイヤルリザムのあと、近隣にあるロイヤルバークデールをプレー。海からの強風と横殴りの雨故に4ホールマッチプレーを行い、またしても父の勝ち。英国で最も有名なゴルフホテルであるプリンス・オブ・ウェールズに泊まり、部屋でチップ&パットの勝負を行う。
お互い減らず口の言い合いとなるが、ここでの勝負は打数だけでなく、いかにウィットに富んだジョークが言えるかにかかる。父と子がゴルフ友達であることがわかる一幕だが、父はいつでもそういう頭の賢さと心の余裕が必用だと説いているのだ。日本人はとかくユーモアやジョークに欠ける。外国でのパーティでは特にそうした会話力が必用である。それはゴルフでも同様で、その人の人柄と教養の深さを表すことになる。ぜひとも海外でゴルファーと一緒にプレーし、ウィットに富むジョークを学びたい。
父と子はスコットランドへ
父と子のゴルフ旅はスコットランドに入る。1977年にジャック・ニクラウスとトム・ワトソンが死闘を繰り広げたターンベリーでプレーする。父の病状が思わしくなく、途中からホールを飛ばす。プレーを終えた夕刻にはバグパイプが奏でられ、コースに哀愁が漂うのだ。
翌日はプレストウィックとロイヤルトルーンという歴史的なコースを少しずつプレーして、英国一難しいと言われるカーヌスティを訪れる。父はホテルで休息し、息子はクラブプロとラウンド。「カーヌスティの有名なアプローチ」を学ぶ。これはしっかりとグリップし、アイアンのフェースを被せて、順回転の低いボールを打つというもの。転がしの極致である。
さらに父と子は世界最古のクラブ、オノラブル・カンパニー・オブ・エジンバラが本拠とするミュアフィールドに向かう。父はスコットランドの名士と特別にカートに乗って楽しくラウンド、息子は名門で好スコアを出そうと奮闘するも大叩きの憂き目に遭う。父の穏やかな顔を見て、スコアを破ることを思い立つ息子。それはかつてスコアに固執して崩れ去ったときにレッスンプロの友人から教えてもらった「NATO」というものだった。
「NATO」とは「ノット・アタッチト・トウ・アウトカム」の頭文字である。つまり結果を気にしない。よってスコアカードを捨てることになる。父から教えられた「コースの芝に横たわって空を見る」と同じ効果を発揮する。著者である私は立ち直り、素晴らしいショットを連発する。ただし、父と子のどちらが勝ったかはわからない。父は言っていた。
「そんなことはどうでもいい。いい思い出ができればそれでいいのだ」
思い出が少なければ人生は短く、思い出が多ければ人生は豊かなものになる。ゴルフは思いで作りのゲームでもあるのだ。
最後はゴルフの聖地
父と子の「ファイナルラウンド」はセントアンドリューズのオールドコースとなる。人間が設計したものではない自然のあるがままのコース。神が創ったゴルフコースである。父と子はラウンドしたいとビジターに向けた抽選を毎日行うが落選。ゴルフライターの私には裏口スタートも取れるが、父は頑として許さない。とうとう最後の日が来る。父はすべての人がスタートし終えたあと、コースを散歩しようと提案する。「昔からここは誰もが散歩する権利があるのだ」と言って。
セントアンドリューズは夕景が美しい。波のようにうねったフェアウェイに夕日の陰が忍び込み、コースを陰影のある黄金色に輝かせるからだ。
父と子はストラスバンカーのある至難の11番ホールのティグラウンドに立った。ここで父は思いに耽る息子に架空の4番アイアンを渡したのだ。息子はその意味を理解し、エアギターならぬエアショットをソリッドに放ち、ピンにぴたりとつけた。これまで一度もグリーンをとらえられなかった、その雪辱を果たすことができたのだ。
12番、14番と回り、17番ロードホールにやってきた。世界一難しいパー5である。父は昔、ここでチップインバーディを放ったという。父は仮想ドライバーでエアフェードを放ち小屋を超えた。息子はそれより100ヤードも飛ばした。父は3番ウッドでレイアップしたあと、サンドウェッジでグリーンに乗せた。息子は2オンを果たした。
「よくこんな深いロードバンカーからチップインしたね」と息子。
「当時は浅くて楽に出せたんだよ」と父。
父と子は互いに2パットで収め、父はパーをセーブし、子はバーディを奪った。
ホールアウトした父が言った。
「実に素晴らしい旅だったよ」
それは今回のゴルフの旅でなく、人生の旅を意味していた。
このゴルフ旅のあと、父オプティは2カ月後に天国へ旅立った。友人の医師は「どうして生きているのか信じられない」と言うほどの最後の生命力だった。愛する妻と二人だけの小旅行を果たし、ベニー・グッドマンのレコードをかけてダンスまで踊ったのだ。思い残すことなく亡くなったのである。
唯一無二の大切なゴルフ友達を失った息子は、1年以上も父の声が聞こえなくなっていた。寂しい思いをしていたある日、子供たちとゴルフをしたときに突然父がやってきた。一緒にカートに乗っていると子供たちが言い張ったのだ。
そのとき父の言葉が耳に届いた。
「目を開けて栄光に輝く世界をよく見るのだ。天国への道そのものが天国だ」
その数ヶ月後、とうとう父の声が聞こえた。
「愉しむことだよ。ゲームはすぐに終わってしまうものだから」
それは自分が言った言葉であったのに、父の声だったのだ。
※カギ括弧の言葉は本を忠実に引用していません。この原稿のためにリライトしています。
※この本は新刊ではないため、アマゾンなどで中古本として購入することができます。
文●本條強(武蔵丘短期大学客員教授)