『あなたに似たゴルファーたち』
伊集院静著 文春文庫
巷にいるゴルフを愛する
人たちを描いた短編小説集
作家という仕事だけでなく、私生活でも話題の多かった伊集院静さんが亡くなったのは昨年の11月24日のことだった。享年73歳。野球で鍛えた体躯の持ち主だったが、2020年、くも膜下出血で倒れてから体調がすぐれなくなり、管内胆管癌で帰らぬ人となった。CM制作や作詞家として活躍していた伊集院さんが作家として精力的に仕事をし始めたのは1992年に直木賞を受賞してからだ。亡くなるまでの約30年間に100冊に近い本を出版している。仕事もするが遊びも豪快に行う。銀座で浴びるように酒を飲み、女優と浮き名を流す。酔いながらも健筆を振るい、その間に麻雀と競馬に精を出す。馬券は編集者が百万円もの大金を持たされて購入するという剛胆ぶりだった。
そんな伊集院さんが40歳を目前に嵌まったのがゴルフだった。20代の頃からやってはいたものの、仕事と遊びでゴルフにかける時間はあまりなかった。元々甲子園を目指す高校球児、立教大学野球部に所属していたくらいだからゴルフでもセンスは抜群。飛距離も出ることから、ゴルフに楽しさを感じるものの物足りなさもあったのではないか。本気で野球をやっていた人からすれば、ゴルフは遊びであり、スポーツとは思えなかったのだろう。ところが文壇ゴルフで実力を発揮し出す頃になって、何かの折りにゴルフの奥深さに触れたのかもしれない。ゴルフを愛するようになった。
『NUMBER』というスポーツ雑誌にゴルフ小説を書きだした。そのゴルフ短編小説はいずれもゴルフを愛する巷のゴルファーが主人公だ。ひとホールずつ、面白いゴルファーに出会ったというように18ホール、18人の下手くそゴルファーが登場する。その18人は以下の人たちだ。
バンカーで大叩きをしても爽やかに打数を告げる男、ゴルフ友だちの突然の異変とプレースタイルの変貌、ロストボールを幻のカラスがフェアウェイまで咥えてきてコンペに優勝してしまう話。ゴルフが好きすぎてプレー前夜に眠れなくなった人、妻や友が死んで孤独となった老人がベテランキャディ最後の日にプレーしたときのこと、最終ホールに必ず大叩きしてしまう人。また、嫌味なシングルゴルファーに勝たんと猛練習を積んだ人、パットが苦手だった人が掃除婦からパットを習ってライバルに勝った話、大学時代の友人同士の心温まるクラブのやりとりもある。
さらに雷に打たれてコースで死にたいと欲する大企業の社長、息子の無謀なゴルフを赦すことになる父親、妻のゴルフに夫が付き合うことになって夫婦愛を取り戻す話。競馬のライバルジョッキーと彼らのゴルフ、ユニークな接待ゴルフで成功する男、ゴルフが原因で裁判で争う医者の親子、3つだけ願いが叶うことになったゴルファー、上達と引き替えにボールになってしまった男たちといった具合。最後は厳格な父からゴルフのマナーを仕込まれた息子が孤独な老人になって死ぬ話である。
登場人物はサラリーマンが多いが、大工や医者などもいる。いずれもゴルフの魅力に嵌まり、ゴルフを友とする人たち。伊集院さんはそれらの登場人物はいずれも自分のようだという。つまり、自分がゴルフを通じて得たことを小説に落とし込んでいるのだ。ゴルフを愛することによって人間として一回り大きくなったり、人を許せるようになったり、友情の絆を思い知ったり、夫婦愛を取り戻したり、誰もがやさしい温かい人物になるというストーリーである。伊集院さんの人間観察の深さとゴルフへの熱い思いが滲み出ている珠玉の短篇ばかりだ。
ゴルフの奥深さを語った伊集院さんらしい短編小説本
この連載小説は1冊に纏められ、集英社から『むかい風』と題されて、1998年に文庫として出版された。伊集院さん48歳の時である。ゴルフというものは良き友人を作る、スコアが悪くても楽しいものである。思い切りスイングしてボールが遠くに飛んだときの気分、長いパットが入ったときの嬉しさは格別。何としても今の下手さを脱却できないものか、簡単に上達できる夢の方法はないものか。また、親子でのゴルフ、夫婦でのゴルフも絆を深める最高のスポーツである。こういった市井のゴルファーたちが普段から思っている事を上手に纏めたものと言ってもいい。しかし、伊集院さんはゴルフはそれだけのものではないと思い始めるのである。
それは最後の短篇、「静かな午後」で表されている。主人公、朝永悌一は司法試験に合格したときに裁判官から弁護士になった父の聡一郎からゴルフの手ほどきを受ける。練習もせずにいきなりコースに連れて行った父は息子に手に持ったボールを指差して言う。
「いいか、そのボールにはおまえの欲望や感情のすべてが結果となってあらわれる。ボールが曲がれば、それはおまえの性根のどこかが曲がっているということだ。空振りをするということはおまえがその瞬間に別のことを考えているということだ。つまりおまえはおまえの時間を集中しないでだらだらとしたまま、大切な時間を放棄しているんだ」
父は息子に対し、ゴルフをするときは常に真剣に、1打に集中せよと言っておきたかったのだ。その日の悌一のゴルフは酷かった。当たり前である。それでいいと父は思っていた。父は一切教えなかった。大人への関門であったからだ。
父と子はそれから月に一度一緒にプレーした。厳格な聡一郎はゴルフコースへ行くときもスーツを着て仕事で出かけるときの格好をしていた。悌一がある日、ジャンバーを着ていこうとすると父は叱った。
「ゴルフ場へ行くのにみっともない格好をするな。公判の時にだらしない格好で出てくる人間をどう評価する。いつも公正な姿勢でいろと言っているんだ」
たまに悌一がナイスショットをして笑顔を見せたときにも父は次のように言った。
「何だその笑顔は。卑しい所作をするな。世の中にパーフェクトがないように、ショットにもパーフェクトはない」
息子にとって、これほどの厳格な父とゴルフをすることは決して楽しかったわけではないだろう。
聡一郎はキャディに尋ねるということも一切しなかった。距離も聞かなきゃグリーンの芝目もパットラインも聞かない。悌一はキャディに聞いたらと父に言う。
「いいか、人間にとって一番大事なのは対象を見据える目だ。目にしたものを冷静に確認する。自分の目で確認する習性を持たなければだめだ。目の前で起こっていることは何ひとつだって昨日と同じものはないんだ。他人に聞くようなこことじゃない」
自分の目でしっかり物事を捉え、判断できなければいけないと父は言いたかったのだ。それが法廷に立つものの心構えだと。
そう言っていた父が死に、30年が経った。悌一は裁判官になっていた。妻に先立たれ、定年で退官した。悌一に子供はできなかった。一人でゴルフ場に行くたびに息子を持っていた父は幸せだったし、息子として父と過ごせた自分も幸せだと思った。父の言葉が身に染みる歳となったのだ。一人ぼっちになった悌一にとって、ゴルフだけが唯一の友だった。心を豊かにしてくれた。
たったひとりのラウンド。最終ホールは風が吹き、ティショットがクロスバンカーに入りそうな予感がした。しかし、今日は越せそうだと思った。そのとき、父の声が聞こえた。
「おのれを信じるな」
ティショットを打ち、まさに越せそうだと思った瞬間、バンカーの向こう土手に当たって入ってしまった。5オン3パットの8打。ピンを立て、コースを振り返った。そのとき目眩が起こり、頭の中が白くなって気を失った。そして、闘病3年目の春に悌一は病院でなくなるのである。
この短編で伊集院さんが言いたかったのは、ゴルフは何から何かまで自分ひとりの責任で行われる尊厳のあるスポーツであるということ。そしてそれは死ぬときも同じだということである。人間はたったひとりで死ぬ。その死は人間の究極の尊厳である。希望と共に諦念を持たなければならないのだということを伊集院さんはゴルフを通じて言いたかったのだと思う。
ゴルフにおいては品格を持たなければいけない
そして、この『むかい風』が出版されて10年ほど経った2009年から伊集院さんは世界の名門コースを回るようになった。ゴルフ雑誌の仕事として始まった仕事だが、それは伊集院さんの望むことだった。徹夜で仕事をこなして飛行機に飛び乗り、翌朝から精力的にプレーする。そのゴルフの旅はアメリカ西海岸から始まり、東海岸に映り、ハワイ、そしてスコットランドへと向かうことになる。美しいけれど至難のコースをプレーするうちに、伊集院さんの諦念はより深まっていった。2012年に再び『むかい風』と同じ市井のゴルファーを『NUMBER』に描いた。その3編を入れたものが、本書『あなたに似たゴルファーたち』である。
『あなたに似たゴルファーたち』は『NUMBER』の版元である文藝春秋社から出された。この本には先程紹介した『むかい風』の18篇を入れた21篇の短篇ゴルフ小説が収められている。新しく加えられた最初の一篇は「三年目の雨の日」で、石切裕太という主人公が妻になる女性の父親とゴルフをする物語だ。その日はあいにくの雨。それも強い雨だった。義父となる男は高齢だったが、その雨の中を強い意志を持って平然とプレーした。石切にはプレー前に雨天決行と強く伝えており、彼もまた雨の中を闘志を持ってプレーした。義父はその半年後に急逝、娘の結婚直前だった。義父は雨の中の石切のプレーぶりを気に入って、嫁を託せると信じることができた。石切宛てにパターと共に手紙が残された。そこにはこう書かれていた。
「男の人生は、雨天決行」
どんなときでも男が一度やろうとしたことは辞めたり放り出したりしてはいけない。それは仕事でもゴルフでも一緒だというわけである。
新しい短篇のふたつめは「十年目の風の日」。いつも一緒にプレーする4人のゴルフ仲間の話だ。ここではコースと対話することの大事さが出てくる。設計者が罠を仕掛けている。その罠とはどんなものなのか、コースと対話して知ることが必要だという。対話は自然ともしなければならない。芝の状態や風などの天候とも対話する必要がある。それがわかるまでに10年はかかるというのだ。そしてゴルフ友だちとは競い合い認め合うことが大切だと。伊集院さんは、ゴルフ友だちはとても貴重なものだと言いたかったことである。
3つ目は「最後のゴルフ」。この短篇が最も伊集院さんの言いたかったことだと私は思う。それは「ゴルフの品格」というものである。主人公が大先輩の津村善吉の最後のラウンドに付き合う話。津村は主人公にゴルフの何たるかを教えた人。津村は「ゴルフの約束は女房や子供との約束より大事なもんだ」とどんなときにもコースにやってきて準備を怠らない。また、スコットランド人は上質だと言い、「彼らは天候の条件が厳しいほどゴルフを愉しむ。真のゴルフの素晴らしさはリンクスコースとあの天候にある」と語る。伊集院さんがスコットランドでプレーした経験がそう言わしめたのだ。
また、同伴プレーヤーがバンカーで悪戦苦闘するのを津村は次のように言う。
「バンカーの中で砂だらけになり、溜め息をつき、落胆しているあの姿こそがゴルフの神髄に触れている時間じゃないかね。確かに苦しんではいるが、それは幸福の時間の中にいるとも言える。だから黙ってみておくほうがいいと私は思う」
そんなことを言う津村はいつでもシックな服装をし、ぴかぴかに磨いたシューズを履いていた。派手なウェアはせっかくの緑が楽しめないと、「離れて歩いてくれ」と言うのである。しかも、この人生最後のラウンドで珍しく大叩きをしたときも誇らしい顔で何かを成し遂げたような充実した顔でホールアウトする。誠に凛としたプレーぶりであった。まさに品格のあるゴルファーだった。伊集院さんは実際にそうしたゴルファーに遭ったのだと思う。なぜなら、津村のようなゴルフファーになりたいと常々言っていたからだ。実際に伊集院さんの服装はシックだったし、シューズは綺麗に磨かれていた。まずは格好から品格を持ち、やがて精神までも品格のあるゴルファーになろうとしていたのだ。
伊集院さんが海外の名門でプレーする姿がYouTubeの映像で見られるが、まさに品格を重んじたゴルフぶりだった。年齢を重ねた伊集院さんのゴルフは人として卓越した境地に達することができたのではないかと私は思う。かつては女優と浮き名を流すスキャンダルな作家であり、博打好きの豪放磊落な作家でもあった伊集院さんがゴルフを真剣に行い続けたことによって、作家としても人間としても大きく成長して、気高い孤高の人になったのだと思う。伊集院さんの描いたこれらのゴルフ小説は落ち着いた諦念漂う死生観が表れているものが多いが、まさに彼の死そのものであったような気がする。合掌。
文●本條強(武蔵丘短期大学客員教授)
※本書は2012年に刊行されました。書店及びネット書店にて新品を買うことができます。