2021.12.27

[vol. 05]

心に残るゴルフの一冊 第5回


『ボギー・マン』
抱腹絶倒、下手くそゴルファーのプロツアー挑戦記

ジョン・フェインスタイン著、小川敏子訳

もしもごくごく普通のアマチュアゴルファーがプロツアーの試合に出たらどうなるか?そんな恐れ多いことをやった顛末記がこの本、『ボギー・マン』である。
挑戦したのは米誌『スポーツイラストレイテッド』の今は亡き人気ライター、ジョージ・プリンプトン。大柄でスポーツ好きの彼は、様々なプロスポーツに挑戦、それを書き綴ってきた。プロ野球記は『アウト・オブ・マイ・リーグ』、プロアメリカンフットボール記は『ペイパーライオン』、プロアイスホッケー記は『オープンネット』と、それぞれのタイトルで本になっている。
これらの本は日本語訳が出ていないために詳細はわからないのだが、どれもこれも「ど」のつく素人がいきなりプロの世界でプレーした抱腹絶倒の物語になっていているようだ。しかも実際に体験したからこそわかるプロの世界を垣間見れて、スポーツファンには堪らない魅力となっているという。そして、プリンプトンがプロゴルフの世界、それも世界最高峰のPGAツアーに挑んだのが、この『ボギー・マン』である。

この本によれば、プリンプトンのゴルフ歴は最初が12歳と子供の頃からなのだが、真面目に取り組んだことはなく、この企画が通った2ヶ月前から本気で練習したという。挑戦した時期は記されてはないが、アーノルド・パーマーとジャック・ニクラウスが君臨していた1965年のようだ。プリンプトンは1927年生まれだから、38歳の時だと思われる。いささか古い話に思われるが、クラブを使ってボールを打つというゴルフの本質はまったく変わっていないし、プロアマの様相も今とまったく同じだ。アベレージゴルファーであれば誰でも共感できる内容である。
プリンプトンはニューヨーク生まれのハーヴァード大学卒業のインテリ。大柄で体力もあり、プロ野球記では投手、プロアメリカンフットボール記ではクオーターバックを行っている。ゴルフは東海岸ロングアイランドにあるクラブメンバーで、ハンデキャップは18。飛ばしはするが曲がる典型的なアベレージゴルファーである。
「ハンデは18だけど、プロの試合に出れば、学びも多いだろうし、集中もして、いつもより5打か6打縮まるかも知れない」
そんな安易な?目論見のプリンプトンが挑戦した試合はPGAツアー早春の西海岸3試合。1試合目がビング・クロスビー、2試合目がラッキー・インターナショナル、3試合目がボブ・ホープ。いずれも有名なプロアマ戦であり、プロアマとはいえ、プロにとってはPGAの年間獲得賞金となる本気の試合である。他の試合における本戦前の完全お遊びプロアマ戦ではなく、基本4日間にわたるマジなプロアマ戦を約1ヶ月にわたり戦ったというわけなのである。
挑戦を終えた2ヶ月後、プリンプトンは友人と気軽なラウンドを行う。ナイスショットを連発する彼は自慢げに次のように言う。
「ゴルフの本質は誰でもプレーできるしトライできるという点で、大きな競技場で行われるスポーツとは違う。また、団体スポーツとは違って個人スポーツ故に、同志的な感情を抱けることはない」
この言葉が意味するところは、ゴルフは誰でもできる身近なスポーツであり、プロとも自分が持つハンデによって公平に戦えるものだが、その一方で、誰からも助けてもらえない孤立無援のスポーツであった、ということである。

第1試合はまるで落語のようなプレー

こうしてプリンプトンの1試合目が始まる。美しい声と優雅な物腰の歌手兼俳優のビング・クロスビーのチャリティプロアマ。実業界や芸能界、スポーツ界の有名人がこぞって参加する華やかなトーナメントだ。各アマチュアはプロと組み、異なるコースで4日間を戦う。それらのコースとはゴルファー垂涎の的、モントレー半島にあるサイプレスポイントとペブルビーチ、そしてモンタレーペニンシュラ(後にスパイグラスヒルに代わる)である。
受付のあるロッジではクロスビーが笑顔でゲストを迎えるが、トッププロと組まされたらどうしようとプリンプトンの顔は引きつっている。自分の下手さ加減でトッププロの足を引っぱりでもしたらと不安に思っていると、ペアのプロは運良く無名ともいえるボブ・ブルーノ。早速ブルーノに電話すると、「おお、ハンデ18か。これはいいぞ」と上機嫌である。つまりプリンプトンが上手くプレーすれば、ペア優勝もありうると喜んでいるのだ。とはいえキャディはエイブという浮浪者のような小柄な煙草吸いしか残っていなかった。
試合前夜は持参したたくさんのゴルフ本に目を通し、「ヒントになる言葉がないか」と探しながら寝床に付く。本番の翌日は緊張して朝早くから目覚め、エイブとともに練習に励む。そうこうする間にスタートである。
モンタレーの1番ホールはイージーと言われるパー5。クラブハウスから多くの人が見ている。もはや緊張は最高潮。「リラックスしろ」と言い聞かせて打ったティショットは、何とフェアウェイど真ん中に飛んでいった。そしてセカンドもナイスショット。グリーンまで僅か40ヤードまで飛ばした。

ブルーノがプリンプトンを見て叫ぶ。

「凄いぞ!いい調子だ!バーディをとればツーアンダーのスタートだ」
ここでプリンプトンは何を思ったか。
「18というハンデが後ろめたくなってきた。2位に17打も差を付けて優勝したら、後ろ指をさされるに違いない」
素人は恐ろしい。たった2回のショットが良かっただけでぶっちぎりの優勝を成し遂げられると思うのだから。
こうして打った第3打は何とシャンク。ピッチングウェッジで右のガードバンカーにぶち込む。ここからホームランして松林に入れ、脱出するのに2打かかる。もはや頭の中は真っ白だっただろう。
ブルーノは笑顔から一転して怒る。
「ピックアップしろよ。もういい!」
最初のホールから早くもホールアウトできなかったプリンプトン。2回のナイスショットを亡きものにする1回の大きなミス。しかし、これがハンデ18のアマチュアの真実の姿である。
プリンプトンは自分のゴルフについて語っていた。
「突然、肉体が機械になる。それも日本の退役軍人が命令を下し、アル中の技師が動かすんだ」
つまり、そんな機械ではボールに上手く当たることなどありえないというわけだ。もの凄い妄想である。だからナイスショットは3打以上続かない。4打目には必ず大きなミスを招いていた。

悪夢の初日を終えて2日目。プリンプトンはウォルター・ヘーゲンの教えに従い、起きたときからゆっくりな動作を心掛ける。ゆっくり歯を磨き、ゆっくり話し、ゆっくり食事する。ボーイに何を言っているかわからないと言われ、しかも時計を見てびっくり。あまりに時間が経っている。焦って車に飛び乗って会場となるサイプレスに向かうが、運転するキャディのエイブが道を間違える。しかも行く先がわからないとのたまわる。
ようやく看板を見つけて向かったはいいが、遅れたため会場まで大渋滞。仕方なく側道を走るが白い目で見られる。エイブに窓を開けさせ「出場者です」と大声を張り上げさせる。ようやく駐車場と思った矢先、駐車カードがなく警官に呼び止められる。ともあれ車を止めて走り、ブルーノが待つティグラウンドに着くと、前の組が打ち終わっていた。間一髪間に合ったものの、もはやヘーゲンの教えは吹っ飛んでいた。
プリンプトンとエイブはまるで落語の熊さん八つぁんである。「馬鹿じゃないの?」を地でいく珍道中。しかし舞台は落語でなくマジなゴルフの試合である。急いてはゴルフをし損じる。プリンプトンは2日目も大叩きだ。しかもブルーノはPGA屈指の短気者だった。
4番ホールでパットミスしたブルーノは、次のティショットのためにドライバーを持つや、林の中に入っていった。すぐに「カーン、カーン」という妙な音が聞こえてくる。
「大変だ、彼がドライバーで切株をひっぱたいているぞ」
その音がようやく鳴り止んだと思ったら、ブルーノが持つドライバーはグロテスクに曲がっていた。
サイプレスの16番は海越えの世界に名だたる名ホールだ。岩場の上にある狭いグリーンに乗せることはかなり難しい。プロが14打も費やした難所である。プリンプトンはウッドを持ちだして打った。見事なトップボールでボールは海の藻屑と消える。
プリンプトンの茶番劇はその翌日も続き、クロスビー最後のショットはペブルビーチの18番。フェアウェイの左サイドが太平洋という名物ホールだ。プリンプトンはひどいショットを連発、3打目をギャラリーの中に打ち込み、衆目の中で打つはめになるところ、ピックアップの許しを得て、人混みに隠れるようにしてホールアウトした。
「大勢のギャラリーが見ているところで球を打つのがどれほど難しいか。カッコ良く見せようとして大恥をかく。狂気の沙汰ってやつになる」

第2試合のラッキー大会はアンラッキー連発

プリンプトンの2試合目はラッキー・インターナショナル。サンフランシスコを舞台とするこの試合はプロ1人にアマチュア3人が4日間一緒にプレーする。プリンプトンはホテルに到着するやパターの練習をやろうと広い部屋に変えてもらうのだ、そこは寄木細工の床だったというアンラッキーで始まり、さらにラッキー大会初日は選手が最も悪いスタート順と呼ぶアーノルド・パーマーの前の組だった。パーマーの親衛隊であるアーニーズアーミーは他の選手のことはどうでもいい川の流れのような大群衆である。
舞台はハーディングパーク。その14番でプリンプトンはまたもやらかした。右の大群衆を避けて打ったボールは左の谷底へ。ようやく球を探し出したとき、パートナーはうんと先に進み、後ろの組は谷底の自分が見えない。パーマーが打とうとするのを「待ってくれ!」と制して睨まれ、急いで打った球はチョロにテンプラで結局ピックアップとなる。まさに悲惨な自爆であった。
その日の夜はゲストに混じってジャック・ニクラウスと同席したプリンプトン。帝王が甲高い声でジョークを飛ばしながら話すのを始めて体験する。またこの試合では恐ろしいイップスについての話も出た。
「ゴルフはいくら体が健康でも精神が冒される。それがイップス。伝染したら徐々にむしばまれて手が動かなくなる」
イップスによってボールに構えたまま銅像のように固まってしまった選手は数多い。話はイップスと息詰まる感じのチョークの違いについても論じられた。呪われた人々の話はプリンプトンにとってさらなるアンラッキー以外の何物でもなかっただろう。
あるプロはこんなことを言った。
「ゴルフでは経験がマイナスになる。経験によって恐ろしいものを知り、ミスショットを誘発するのだ」
ミスショットがトラウマとなって体が固まってしまうプリンプトンは、まさに経験が不運を招いてしまうアンラッキーマンだった。

第3試合はボブ・ホープ・デザート・クラシック。

この試合は避寒地として名高いリゾート地、パームスプリングスで行われる。バミューダデューンズ、エルドラド、ラキンタ、インディアンウェルズの4つのメジャーコースを5日間かけて回る。アマチュアは4日間、毎日入れ替わるプロとラウンドする。
プリンプトンは初日、インディアンウェルズでプレーした。一緒のアマチュアは医者とビジネスマン。プリンプトンの第1打は今や好例となったトップボールで、目の前の池に消えた。いきなりの目を覆う惨劇にパートナーたちは声も出ない。ゴルフに興味を失ったプリンプトンはコースサイドの別荘を眺めながらランク付けを行いだした。こんな事で良いショットが生まれるはずもない。完全なお荷物となっていく。
ホールを重ねて医者が言った言葉は「スロープレーヤーと下手くそなプレーヤーはいい迷惑だ」である。プリンプトンは本当に迷惑をかけるゴルファーだった。彼のノートにはこう書かれていた。
「13番は悪夢のホールだった。ドライバーショットが大きくスライスして隣のホールに飛び込み、何とボブ・ホープのカートを直撃した。私は侘びを言って力なく笑い、情けなさそうに首を振った」
もはや笑い話ではなかった。悲しい出来事だった。
「まったく、タオルを投入したかった」
棄権したかったが、プリンプトンは最後までプレーした。自分のプレーがチームの得点にならなくてもピックアップばかりであっても情けなくてもだ。時々は素晴らしいショットもあった。それがゴルフであるといわんばかりの快打が。
プリンプトンは言う。
「これまで様々なプロスポーツ選手を取材してきたが、皆プロゴルファーでなくて良かったと言っていた。なぜなら終始一貫、緊張を強いられるメジャースポーツはゴルフだけだからだ。ショットとショットの間に疑念が忍び込み。自信が揺らいでしまう。他のスポーツは試合開始のホイッスルが鳴れば緊張感はどこかに消し飛んでしまうのだ」
さてさて、そんなゴルフのプロツアー体験も最後の最後を迎える。ボブ・ホープ・デザート・クラシックでのプリンプトンの最終ホールはラキンタの9番だった。大ギャラリーが注目する中、プリンプトンはここでもドライバーでもの凄いスライスショットを放ってしまう。ボールはデザートの大会名にふさわしく荒涼とした砂漠に飛び、佇む人間はプリンプトンただ一人である。まさに遭難者だった。
孤立無援の中、足場を固めて打ったショットはシャンク。プリンプトンはボールを探すのを辞め、両手をポケットに入れた。プロを含めて3人のパートナーがグリーン上でパットしているのを横目で見ながらクラブハウスへ引き上げた。目にはきっと涙がたまっていたのではないか。そう思えるような死をも覚悟したような悲しい最後だった。

アベレージゴルファーが試合に出たら誰でも経験する話

落語で始まったプリンプトンの面白話は試合を経るごとに悲惨さが増し、私の胸は痛くなる一方だった。この本には、ツアーにまつわるひどいプレーをしたときに自分を殴りつけて顔から血を流す世界一短気な人間や、ひとホールで3回も首にされた哀れなキャディ、イップスで動かなくなった手を無理矢理動かしたら遙か彼方にまでパットしてしまったプロなど、様々な話で笑わせてくれたが、やはり気になるのはプリンプトン本人のプレーである。そのプレーには3試合1ヶ月もの間、たった一つをも楽しく幸せな話はなかった。
しかし、それもアベレージゴルファーが無謀にもプロツアーに出場した結果なのだから仕方ない。我々だって同じ事を初めて挑戦したら、いつもの力の半分も出せずにうなだれてプレーすることだろう。そしてまた、この本に書かれていることはこのコラムを書いている自分自身にも当てはまることだったのである。
私はプロの試合であるダンヒルカップのプロアマに出場したことがある。舞台は聖地セントアンドリュース・オールドコース。2000年11月の吐く息が白くなる寒い日だった。一緒に回るアマチュアはジャズトランペッターの日野皓正さんと皇妃のような女優のヒロコ・グレースさん、プロは何と青木功さんだった。
前夜祭は日野さんの愉快なお喋りなどでとても楽しかったが、翌日を考えてあまり飲まなかったように思う。当日は朝早く起き、シャワーを浴びてから練習場に向かった。体が冷えて動かず、ダフってばかり。このままスタートしたらどうなるかと不安の塊になった。
ゴルフ競技の総本山であるロイヤル&エンシェントのクラブハウス前で記念写真を撮り、いざスタート。私の胸は生涯最高の鼓動が胸を打ち、まさに喉から心臓が飛び出しそうなほどだった。打つ前に選手紹介がある。
「ネクスト、ツヨシ・ホンジョー、フロムジャパン」
大きな声で呼ばれ、あちらこちらに礼をする。緊張のあまり、ティアップが上手くできたのかさえ覚えていない。
ともあれ素振りをしてドライバーを思いきり振った。何と打球は完璧に近いナイスショット。まさにプリンプトンがクロスビー初日で放った第1打と同じだった。そのときに青木プロが放った言葉は一生忘れない。
「うん、いいショットだ。これで日本に帰れるな」
青木プロの声が今も聞こえてくるようだ。
さらにセカンドショットもナイスショットでグリーンをとらえた。これもプリンプトンと同様だったが、この本を読んでグリーンに乗って本当に良かったと思った。アプローチをしていたらどうなっていただろう。つまり、緊張したときのフルショットはいいが、コントロールショットは厳しいのではないかと思うのだ。
私のオフィシャルハンデはその頃16くらいだった。70台も出したが、100も叩く、平均90のゴルファーだった。ダンヒルカップのプロアマがプリンプトンよりも良かったのは、ギャラリーが多くなかったこと。あまり目に入らなかった。こうして何ホールかは上手くプレーできて少しは貢献できたように思う。
しかし、終盤の肝心なホールで私はやらかしてしまった。有名な17番ロードホール。右に由緒あるオールドコースホテルがせり出している。もちろんホテルを避けて左を向いて打ったわけだが、左に打とうとすれば右に飛ぶのがゴルフ。ボールは大きくスライスしてホテルに飛んでいった。窓ガラスを割る音こそしなかったが、青木プロはすぐにすたすたと歩き出し、打ち直しをさせてはもらえなかった。
プリンプトンのようにクラブも持たずポケットに両手を入れて歩いていると、ホテルから私たちを見ていた渡辺司プロがやって来た。渡辺プロは青木プロの弟子。青木プロに挨拶したと思ったら私に「あれれ、本條さんはギャラリーなの?」と言って笑う。そのときの恥ずかしいことと言ったらなかった。有名なロードホールをプレーできず、さらに皮肉まで言われてしまったのだ。プリンプトンの気持ちが痛いほどわかったのはこうした経験があったからである。
皆さんの中にもこの本を読んで身につまされる思いをする方がいるかも知れない。また、自分には遠い話だと大笑いする人もいるだろう。翻訳した永井淳さんは「最初に読んだとき、笑いすぎて翌朝、腹が痛かった」と言っている。もちろん、そうした読み方で全然構わないノンフィクションである。しかし、この泣き笑いの話にはゴルフというスポーツの本質が書かれているように思えてならない。
「ゴルフほど孤独なスポーツはおそらくない。ペア戦、チーム戦といえども、まったくの個人競技である。そしてそのことは下手なプレーヤーだけでなく、上手なシングルハンデのプレーヤーでも、プロでさえも確実なことなのだ。レベルは違えども、誰も助けてはくれない孤立無援の競技。それがゴルフである」
このことは長年ゴルフ雑誌の編集長として多くの人からプレーを見られ、常に大きな重圧を背負ってプレーしてきた私としては声を大にして言いたかったことである。それを代弁してくれたプリンプトンのこの本は、私の精神を安らげてくれる唯一の福音書なのかも知れない。

文●本條強(武蔵丘短期大学客員教授)

※この本は1989年1月発刊のため、アマゾンなどの中古本で購入できます。版元は東京書籍株式会社。