2022.6.29

[vol. 11]

心に残るゴルフの一冊 第11回


『ザ・ゴルフマッチ サイプレス・ポイントの奇跡』

マーク・フロスト著 永井淳監訳 ゴルフダイジェスト社刊

この本『ザ・ゴルフマッチ』は、1956年1月10日に行われた完全なプライベートな非公式の試合をくまなく描いたノンフィクションである。その秘匿の試合はベストボールのダブルス戦だったが、戦ったメンバーがゴルフ史に名を残した者たちであり、しかもその舞台が世界最高のコースとさえ言われるサイプレスポイントクラブで行われたのであるから、物語として成立するのである。
ダブルスの一つは、バイロン・ネルソンとベン・ホーガンというトッププロのペア、もう一つがケン・ヴェンチュリとハーヴィー・ウォードというトップアマのペアだ。
ネルソンとホーガンは共に1912年生まれ、このダブルス戦のとき45歳だった。ヴェンチュリは1931年生まれでこのとき24歳、ウォードは1925年生まれの30歳だった。つまり大ベテランのトッププロペアを相手に若きアマチュアペアが挑んだダブルス戦だったのである。さしずめ、日本のゴルフ界ならば、青木功と尾崎将司の黄金プロペアに対し、学生時代の川岸良兼と丸山茂樹のアマ日本一ペアが挑戦したようなものだと言えばわかりやすいかもしれない。

とはいえ、このときのネルソンは10年以上前にPGAツアーから引退しており、牧場を営む優雅な暮らしをするファーマーだった。ゴルフは時おり頼まれてエキジビションマッチに参加するくらいで、真剣な試合はほとんどしていなかった。とはいえ、現役時代にメジャー5勝を含むPGA52勝、1945年には脅威の11連勝を含む18勝を挙げており、この大記録は77年経つ今も破られていない。その頃のネルソンは打つショットのすべてがナイスショットであり、それはこの1956年当時でもまったく衰えていなかった。敬虔なクリスチャンとして真面目で温厚な人柄により、多くの人たちから尊敬され慕われていた。愛称の「バイロン卿」はまさにネルソンの人柄を表している。
ベン・ホーガンはネルソンと同じ年に生まれただけでなく、同じテキサス州生まれであり、同じグレンガーデンCCのキャディをしていた。とはいえ、体格と才能は遠くネルソンに及ばず、キャディ時代も勝てず、プロになってからもネルソンの陰に隠れたままだった。性格は子供時代に眼前で父親がピストル自殺を図ったことで、完全に内気で陰気な人間となっていた。しかし、ゴルフの腕は猛練習を積んだことで徐々に上がり、PGAツアーで優勝できるようになった。

1948年には全米プロと全米オープンというメジャータイトルを獲り、いよいよこれからという翌49年の2月2日、ホーガンが運転する自家用車にバスが正面衝突、瀕死の重傷を負ったのである。鎖骨や肋骨が折れ、足首はひん曲がり、血管は血栓のできる危篤状態だった。静脈を縛って手術を行い、命こそ取り留めたものの、歩けるようになることさえ難しく、それ故にゴルフプレーは絶望視されていた。ところがホーガンは過酷なリハビリに耐えて、翌50年の全米オープンでは脚を引きずりながら優勝、奇跡の大復活を遂げる。ホーガンは事故の際に助手席の妻を庇い彼女が軽傷で済んだこともあり、犠牲的精神と奇跡の復活により一躍国民的なヒーローとなってしまう。しかもその後も脚の後遺症がありながらマスターズなどメジャーに勝ち続け、このダブルス戦のときまでにメジャー9勝を含むPGAツアー64勝を挙げていた。すでに峠を越えてツアーから引退する日も近いと囁かれていたが、それでもホーガンの威光は輝きショットは精密を極めていた。「ホーク」の愛称のように鋭い鷹の目をしてピンを目がけたのである。
そうしたゴルフの偉人に挑むアマチュアの二人に関しては、読者の中にもあまり知らないという方もいるだろう。まず、ヴェンチュリだが、最近まではゴルフトーナメントの明快な解説で有名だった。サンフランシスコ生まれで大学はサンホセ州立大学。ゴルフは上手かったがスイングに弱点もあり、それをバイロン・ネルソンにレッスンしてもらい克服。数々のアマチュアタイトルを獲り、このダブルス戦の後の1956年にマスターズでは史上初めてのアマチュアチャンピオンになる活躍ぶりだった。最終日に⒋打差のリードがあったが、80を叩いて2位になってしまったのだった。その後プロに転向、1964年の全米オープンに優勝する。PGAツアー通算14勝。64年、これからという33歳の時に手首を痛めてそのまま回復できず、ツアーから撤退した。
そのヴェンチュリとペアを組むハーヴィー・ウォードはノースカロライナ州生まれ。ノースカロライナ大学時代にはかのアーノルド・パーマーも破ってNCAAチャンピオンシップを制している。社会人になってからは全英アマに優勝、全米アマは2連覇し、ハンサムな容貌もあって、アマチュア界の貴公子として絶大な人気を誇っていた。ボビー・ジョーンズも自分の正統なる後継者はウォードしかいないと目をかけていた。ウォード本人も毎週毎週違う場所でプレーをし、ホテル暮らしをしなければいけない旅がらすのようなプロの生活は自分には馴染めないと思っていたため、プロに転向する意志はなく、アマチュアとしてゴルフを続けながら、ビジネスマンとして成功することを志していたのである。

4人の後援者が世紀のダブルス戦を画策する

このダブルス戦のとき、ヴェンチュリとウォードのアマチュアペアは無敵を誇っていた。何年間も負けなしのペアで、アマチュアのライダーカップであるウォーカーカップでも連戦連勝、どんなペアにも勝てるという最強のコンビだった。
では、なぜ、ゴルフの神様のようなプロ二人と彼らアマチュアがダブルス戦をすることになったかというと、まずは「クラムベイク」ことビング・クロスビー・プロアマが関わってくる。当時、クロスビーは芸能界で大成功を収めていたが、自身ゴルフが好きで生涯シングルハンデキャッパーだったし、ホームコースのクラブ選手権に5度優勝し、全米アマと全英アマにも出場していた。そんなクロスビーが冬のオフシーズンを若手ゴルファーのために興したのがプロアマのチャリティマッチだったのである。
1937年に始まってPGAツアーの1戦にもなった大会だったが、前夜祭はお祭り騒ぎ、「クラムベイク」はと恒例の「蛤のバーベキュー」のことでそれが愛称となり、楽しい大会としてプロたちに大人気だった。それだけに引退したネルソンも参加し、ホーガンも冬の休みを返上して来ていたのである。ゴルフ好きの芸能人や財界人もプロアマ戦故に参加し、彼らのお気に入りの選手も多々参加することになる。財界人としてはオクラホマの鉱業家、ジョージ・コールマンがペブルビーチにある自宅で毎年カクテルパーティを開いていた。コールマンの友人と言えばホーガンであった。
もう一人、エディ・ラウリーという自動車のセールス会社を経営する男も億万長者であり、大のゴルフ好きだった。彼はバイロン・ネルソンと親密であり、ヴェンチュリとウォードを自分の会社でセールスマンとして雇い入れていた。アマチュアであっても有名アマであればセールスはしやすい。そこに目をつけていたわけで、彼らが強くなるように支援し、ネルソンにもレッスンを頼んだりしていたのだ。
そして、クロスビープロアマ戦の練習日が始まる前夜、コールマンのカクテルパーティにラウリーがいたというわけである。
「私の会社のセールスマンである、ヴェンチュリとウォードのペアはこれまでただの一度も負けておらず、無敵。どんな相手だろうと彼らに敵うものはいない」
そうラウリーは豪語した。
「プロのペアでも勝てないというのか?」
コールマンが聞く。
「そうさ、どんなツーサムでも好きなヤツを選ぶがいい」
ということでコールマンが電話した相手は懇意のホーガンである。理由を話すとホーガンは言った。
「バイロンがやるって言うのならOKだ」
ネルソンはコールマンの言うことは絶対である。
こうして翌日の火曜の朝、サイプレスポイントで、ネルソン・ホーガン組対ヴェンチュリ・ウォード組のダブルス戦が行われることになったのである。

世界最高のコースの呼び声高いサイプレスポイント

サイプレスポイントはサンフランシスコから車で3時間ほどのところにあるモントレー半島にあるゴルフコース。近くのカーメル湾には有名なペブルビーチCCがある。サイプレスポイントは太平洋に突き出たゴルフコース。中でも16番ホールはティグランドからグリーンへ海越えとなる印象的なパー3であり、世界一美しいパー3と呼ばれている。この名物ホールには老木の糸杉が象徴的にあり、糸杉が突端にあることからサイプレス(糸杉)ポイント(突端)と、このコース名が付けられた。
このコースを設計したのはマスターズが行われるオーガスタナショナルGCを設計したアリスター・マッケンジー博士。ボビー・ジョーンズがオーガスタの設計者を誰にしようかと考えていた矢先にこのサイプレスポイントをたまたまラウンドし、「自然の景観を生かした美しく格調の高い、プレーのしがいがあるコース」と絶賛、マッケンジー博士にオーガスタ設計を依頼したというわけだ。ジョーンズもマッケンジー博士もコースへの憧憬は自然そのものであるセントアンドリュースにあり、それ故に自然を生かした設計にこだわっていたのである。
サイプレスポイントは1928年開場のコース故、後6年経れば100周年となる。世界最高の呼び声も高いコースも日本からすればその名前の浸透ぶりはペブルビーチに遠く及ばない。それもそのはずでペブルビーチは日本のゴルフ旅人でもプレー可能だが、サイプレスポイントはメンバー同伴でなければプレーできない。紹介だけではプレー不可能なのだ。そのメンバー数は僅か250人ほどと言われるだけに、これまでプレーした人はほんの僅かだろう。有名なプロゴルファーでもぶらりと訪れて断られた人は数多く、アダム・スコットやルーク・ドナルドは「生涯最後にプレーしたいコースはどこか?」と尋ねられ、「サイプレスポイント」と答えているほどだ。
そんな隠れた宝石とも言えるサイプレスポイントで、秘匿のダブルス戦は行われたわけである。1956年1月10日火曜日の朝はホーガンがペブルビーチで練習の予約を入れてあり、ギャラリーを遠ざけるためにその予約はそのままにされていた。この日、サイプレスポイントに最初にやってきたのはラウリーとヴェンチュリ。一緒に車に乗ってコースに現れた。続いてネルソンが一人でやってくる。さらにコールマンとホーガンが連れ立ってやってきた。もはやスタッフは何が起こるのかと騒然である。ホーガンは白いリネンのハンチングにイングリッシュホワイトのポロシャツ、チャコールグレーのカーディガン、そして折り目がビシッと入ったウールステットのスラックスといういつもの出で立ちだった。威厳がオーラとなり、従業員たちは誰もが押し黙る。当然、無口なホーガンは一言も発しない。
スタート時間は10時だった。残り一人、ウォードが現れない。社交家でプレーボーイの彼は前夜遅くまで酒を飲んで騒ぎ、美しい女性と海岸に消えていた。朝の7時にこのダブルス戦のことを知らされて、ようやくスタート10分前にやってきたのだ。睡眠時間は僅か2時間。ウォルター・ヘーゲンならばそれでも好プレーできようなものだが、ウォードはどうなるか。しかも、ヴェンチュリも子供の頃から憧れてきたネルソンとホーガンとに初めて挑めることに興奮して寝付かれなかった。当日の体調においては圧倒的にネルソン・ホーガン組が優勢であった。とはいえ、ネルソンは実戦から離れていたし、ホーガンは絶頂期を過ぎていた。ホーガンの脚は相変わらず厳しい状態で脚を引きずる、さらに血管障害から左目の視力が衰えていた。それだけにパットにはかなりの問題があった。老いたる戦士が勝つか、若い闘士が勝つか、この時点ですでに読者はわくわくと胸を書き立てられるはずだ。

ネルソン・ホーガン対ヴェンチュリ・ウォードの対戦はいかに?

いよいよスターティングタイムとなった。ラウリーとコールマンは後ろからついてプレーするつもりだったが、はやくも歴史的なダブルス戦を前の組に見て、プレーする気は失っていた。完全にギャラリー化していたと言っていい。1番ホールは418ヤードのパー4。フェアウェイの広々とした砂丘の縁まで下ったところに、起伏のある砲台グリーンが配置されている。グリーンの左右と奥に天然の地形を生かしたバンカー群、さらにその奥は砂丘地帯がせり上がる。サイプレスポイントは美しい緑の芝と荒れた白い砂丘のコントラストが一幅の風景画のように構成されているのが特徴なのである。
最初に打つのはスタートタイムぎりぎりにやってきたウォード。二日酔いと寝不足なのに、唸りを上げる得意のストレートボールをフェアウェイ左サイドに放った。2番手はヴェンチュリ。力強いフェードボールでホールをセパレートする糸杉の上を越えてフェアウェイのど真ん中に落としてみせた。3番目はネルソン、ウォードと同じところにドライバーショットをいとも簡単に放つ。最後はホーガンがカトリックのミサのような儀礼的なプリショットルーティンの後、持ち球のフェードでフェアウェイをキープした。
さあ、いよいよ戦闘開始。勝敗の行方はどうなるのか。それは読んでのお楽しみだが、希に見る大接戦だったことはここに記しておこう。4人はそれぞれ自分の個性を発揮してサイプレスの難コースを攻略していく。相手のプレーを見ながら、パートナーと結託してスコアを作っていく。ダブルス戦の常套手段として、ペアのうちカップから遠い一人パーを保持し、カップに近いもう一人がバーディを狙う。そのやりとりが読んでいてとても面白い。さらにその勝負の展開は予想もつかないドラマとなり、その途中途中に4人のプロフィールが挟み込まれている。ゴルフの歴史まで学べる物語となっている。
この秘匿のダブルス戦を書くに当たり、著者のマーク・フロストは取材に大変な苦労をしたことが想像されるが、さすがに『ツインピークス』の脚本家だけあって、物語の構成力と筆力は素晴らしい。
最後にこの夢のようなダブルス戦を体験したヴェンチュリの言葉を引用しよう。
「あの『マッチ』が実現したのは本当に夢のようだ。もしその場に居合わせなかったら、私自身、信じられないだろう。ゴルファー、いえ、スポーツに少しでも興味がある人なら、一旦この本を手にしたら、一気に読み終えずにはいられないはずだ。こんな出来事はもう二度と起こらないし、事実の興奮には、フィクションなど遠く及ばない」
事実は小説よりも奇なり、である。ちなみに私からアドヴァイスさせてもらうとしたら、サイプレスポイントのスコアカードをどこかで入手するか、私製のスコアカードを作っていただきたい。そして、この本を読み進めながら、1ホールずつ4人の、またペアのスコアを記入していくことをお薦めする。さらにはサイプレスポイントの1ホールずつの写真や映像を見ながら読み進めるのも、より具体的にプレーがリアルに想像できて面白いと思う。

文●本條強(武蔵丘短期大学客員教授)

※本書は2010年に刊行されましたが、まだ新品をamazonなどで購入できます。