2022.10.26

[vol. 15]

心に残るゴルフの一冊 第15回


『ウォルター・へーゲン物語 ヘイグ自ら語った反骨の生涯』
ウォルター・ヘーゲン著 大澤昭一郎訳 文芸社刊

プロゴルファーとはいかなるものか?
プロを称する人には必ず読んで欲しい一冊

ボビー・ジョーンズが「球聖」ならば、ウォルター・ヘーゲンは「皇帝」である。ジョーンズは1902年に生まれ、生涯アマチュアで通した。ヘーゲンはジョーンズの10歳上の1892年生まれ、生涯プロとしてプレーした。二人はアマチュアとプロと境遇は異なったが、ほぼ同時期にライバルとして戦い、世界中に名を轟かせた。
ヘーゲンはドイツ系出身の自動車板金工の息子として、アメリカ北部オンタリオ湖岸のロチェスターという街に生まれた。10歳の時にお小遣い欲しさにキャディのアルバイトを始め、ゴルフゲームの有り様を知る。上手な人と下手な人の違いは何かを考えた。ただクラブを運ぶだけでないところが非凡である。
やがてクラブのプロとなり、スイングを覚え、試合にも出るようになる。スポーツは何をやっても万能だったが、金持ちになるためにはプロ野球選手になるのが一番だと考えていた。憧れの大スター、ベーブ・ルースが大活躍をしていたからである。実際、ヘーゲンは投手兼遊撃手としてフィラデルフィア・フィリーズから球団テストを受けるように言われていたのだ。
しかし、運命がヘーゲンを変える。クラブのメンバーがヘーゲンのゴルフの才能を見込み、全米オープンに出場するように勧めたからだ。経費はすべてその人物が出した。1914年、ヘーゲンが21歳のときだった。イリノイ州ミドロジアンで行われたこのナショナル選手権で、ヘーゲンは並み居る英国の名選手を抜き去り、優勝してしまったのだ。カップに自分の名前が刻まれ、名声が高まるとともに、エキジビションマッチなど多くの試合が組まれ、一気に富も手に入った。
「もはやゴルフに己のすべてを賭けようと思った」
こうしてヘーゲンのゴルフ人生の幕が開け、全米オープン2勝、全英オープン4勝、全米プロ5勝など、ヘーゲンの黄金時代を細かく記したものが、本書『ウォルター・ヘーゲン物語』である。ヘーゲンが自ら語る一人称で書かれたものだけに、彼の人間的魅力が余さず出ている。
そこにはプロゴルファーとはいかなるものか、いかなるものでなければいけないかがくまなく書かれている。プロゴルファーを自認する人、プロのスポーツ選手であるならば必ず読んで欲しい1冊である。プロ選手として己に欠けているものがあれば、ぜひヘーゲンの生き様を学んで欲しい。そこにはスター選手になるための多くの要素を知ることができる。

ヘーゲンこそ、未開のアメリカゴルフ界を燦然と輝かせた人物である。ジーン・サラゼンがいみじくも語っている。
「いま、プロゴルファーとして多大な冨を得ている選手は、皆、ヘーゲンに感謝しなくてはいけない。彼こそがプロゴルフを大リーグ並みの興業事業にしたのだから」
次からはこの本の中でヘーゲンが自ら実践したプロフェッショナル哲学を紹介していこうと思う。

プロたる者、人間的魅力に満ち、人気がなくてはいけない

21歳の若さで全米オープンを制したヘーゲンは、一夜にして稼げるプロになった。しかし、まだまだゴルフ界はプロ野球に比べれば認知度は低く、人気も乏しかった。ヘーゲンは自らを使って、ゴルフの人気を高めたいと考えた。どうすれば、自分がベーブ・ルースに匹敵するスポーツマンになれるのかを考えたわけである。
まずはエキサイティングなゲームをすることに徹した。それには自分がワクワクすること、ゴルフを思い切り愉しむことだった。それも窮地を愉しんだ。難しい局面に立たされれば立たされるほどムクムクとやる気が湧き出た。どんなことがあってもこの窮地から脱出すると燃えに燃えるのだ。
例えばマッチプレーで残りホールは僅か2つで、しかも2ダウンしている。1ホール引き分けるだけでも敗北する。そんなときにスーパーショットを放って1ホールずつ挽回し、最終ホールでタイに持ち込み、翌日のプレーオフで勝ってしまうのがヘーゲンだった。
それも難易度の高いショットが必要になったときに、ものの見事にナイスショットを放つ。しかも奇跡的なチップインバーディまで奪ってしまうのだ。観客は興奮のるつぼと化した。
「目の前のショットだけに集中する。カップインまでをイメージしてその通り、寸分狂わずに打つのだ」
ひたすら入れることだけに集中するから緊張などしない。入らないなどとは思ってもいないからリラックスできる。気合いもろともショットを放つ。自分の実力以上のものを発揮してしまうのだ。
「難しいショットほど気合いが入る。相手の応援が多いほど、私は気合いが入る。
成功させてやろうと高い集中力が発揮できるのだ」

1926年の全英オープンでは最終日最終ホールでイーグルを取れば首位のボビー・ジョーンズに並べるということがあった。ヘーゲンはティショットを飛ばし、セカンドでピンを狙った。脇にいたスコアラーにグリーンまで先に行って旗を持つように言いつけた。そして、大観衆が見守る中、ピンを見つめ、ショットを放ったのだ。打球は大歓声の中、ピンを目がけて一直線に飛び、カップに向かって転がっていった。
大観衆は息を呑んだ。ボールはカップに当たって飛び出し、スコアラーが持ったピンに当たった。本当にチップインするところだった。クラブハウスからこの様子を見ていたジョーンズは腰が抜けるほど驚いたという。
ヘーゲンは敗れたが、大観衆は優勝者以上にヤンヤの喝采を贈ったのだった。
まさにヘーゲンならではのエキサイティングゴルフであり、エンターテイメントゴルフだった。

プロたる者、ただ強いだけでなく、エンターテイナーでなければいけない

ヘーゲンはただ勝利を収めるだけではなく、ドラマを生み出した。劇的な逆転勝利を何度も挙げるから、奇跡の人となり、ショットは伝説となる。人気はうなぎ登りになった。
ヘーゲンを見たくて人が集まる。それだけにトーナメントで初めて入場料を取ることができるようになった。試合が見世物としての価値を持つようになったのである。入場料は選手に還元される。ヘーゲンは利益を独り占めするような男ではなかった。常に気前が良かった。ゴルフ界が盛り上がれば自分の収入も増える。それでいいじゃないかというわけだ。
もちろん、観衆はヘーゲンが見たいのだから、エキジビジョンマッチも大きな賞金がかかる。ヘーゲンは「世界一決定戦」と銘打って、サラゼンやジョーンズなどチャンピオンたちと一騎打ちを行った。そして、相手の心理を読み切り、常に自分が有利な精神状態を築いてプレーし、勝利をものにしてしまうのだった。
「ゴルフは心理戦だ。相手を動揺させれば有利になる。何せ私自身は何が起きようが同様はしなかったからね」
よってヘーゲンはスタート直前まで姿を見せない。相手はイライラして動揺する。佐々木小次郎における宮本武蔵である。よって練習ラウンドもほとんどしなかった。練習すればするほど調子が悪くなると信じていた。コース攻略はキャディに任せ、自分は打つことに徹する。本番に力を発揮すればいいと考えていた。

ゴルフは元々マッチプレーのゲームだった。チャンピオン同士が戦ったら、いったいどっちが強いのか。それほど人々の関心を集めることはない。ヘーゲンはこのことを大好きなボクシングの試合から学んだのだ。1対1の迫真の試合。この本を読んで、ヘーゲンのマッチプレーを本当に見たかったと思うし、最近であれば、タイガー・ウッズの真剣なマッチプレーも見たかった。今であれば、全米オープンと全英オープンのチャンピオンがマッチプレーをしたらと思うし、4大メジャーチャンピオンの勝ち抜き戦でもいいと思う。
ストロークプレーでは決して味わえない、興奮がマッチプレーならば見られると思うのだ。

プロたる者、身だしなみに気をつけ、上品にふるまわねばならない。

ヘーゲンは身だしなみに気を遣った。高級なシルクのシャツを着て、フランネルのズボンにツートンカラーのウイングチップを履いた。ニッカーボッカーにはサイドにアイロンをあて、高級乗馬ズボンのようにした。アーガイルのストッキングに高級革のシューズを履いた。それも服装の色合いは白を基調にするか、白と黒のコンビネーション、グレーやベージュの濃淡のコーディネイト、ブルーをアクセントにするなど、シックな趣で上品さをモットーとした。
それ故に遠征に行くときは大きなスーツケースが何個も必要だったというが、金に糸目は付けない。高級な生地の服でも雨の日だって着るから、すぐに汚れたりダメになったりするが、そんなことも一切気にしなかった。
「金は使うためにあり、なくなれば稼げばいい」
ヘーゲンはハリウッドの俳優たちにも人気があり、女優たちにも大いにもてた。お洒落とはどういうものかが良くわかっていた。そのために英国では皇太子とも仲良くなった。ヘーゲンが大物の雰囲気を醸し出していたからだが、それは服装にも表れていたのだ。上品でお洒落だからこそ、皇室にも好かれたのである。
ヘーゲンはパーティ好きだった。上流階級や有名人たちとの交友関係を広げ、大会前は前夜祭を、大会後は祝勝会を自腹で催した。招待された人たちは飲んで騒いでヘーゲンとの会話を楽しんだ。パーティでヘーゲンは最高級のタキシードを着て、エナメルのパンプスを履いて接待した。社交界がどういうものかも熟知していたのだ。

獲得した賞金はその日のうちにすべて使ってしまうような人だった。宵越しの金は持たない。江戸っ子みたいな気っぷの良さがヘーゲンにはあり、ますます人気を集めた。金は天下の回り物、金はあとからついてくるという考えがあったのかもしれない。
まさにそれは真実で、こうした社交界での交友関係はヘーゲンにゴルフ以外での莫大な利益をももたらした。好条件の証券取引を行うことができたり、不動産の開発事業にも乗り出すことができた。その中にはゴルフ場の開発もあり、支配人などという小さな役柄でなく、オーナー社長業もこなしてしまった。そして、こうしたことからの莫大な利益はヘーゲンブランドのゴルフ用品事業にも発展していく。ウイルソンと契約して自分の名を冠したゴルフクラブを全米だけでなく、世界中に販売していったのだ。
「私は実業家プロゴルファーである」
ヘーゲンはクラブから給料をもらうクラブプロを早々と辞め、試合と興業と事業で手腕を発揮し、ベーブ・ルースよりも稼いでしまうプロになっていったのである。

プロは結果がすべて。優勝以外に価値はない。

ヘーゲンは試合で負けることが嫌いだった。常に勝ちたいと思っていたし、そのために全力を注いだ。選手権に勝てば歴史に名を残せるし、それによる経済効果の高さも熟知していた。
「2位はいらない。優勝以外は価値がない」
そうとまで言い切った。負けることが嫌いなのだから、優勝しかないないのは当然のことだった。
「2位の名前なんて誰も覚えていない。それに2位になって良く戦ったなんて同情などされたくもない」
ヘーゲンのプロとしてのプライドである。
ヘーゲンのスイングは決して美しいものではなかった。スタンスを広く取り、スウェイ気味に体を動かし、大きなスイングアークでボールを思い切り叩いた。それだけに弾道は乱れた。特に取り立てて集中力を必要としないショットのときは尚さらだった。
「ミスショットは結構出るよ。でも、ミスはすぐに忘れて次のショットに集中する。それが上手くできればまったく問題ない。ミスしてピンチになればリカバリーショットは集中力を発揮して上手く行くからね」
ヘーゲンはスイングにはこだわっていなかった。こだわっていたのは目標を狙うということだけ。目標に飛べば良かった。それもここ一番でそれができれば良かったのだ。いくらスイングが良くてもプレッシャーがかかったときにそのスイングができないほど情けないことを知っていた。ゴルフにミスは付きもの。ミスしてもパーであがれば良かったのだ。
「パー4のホールなら、3打でグリーンに乗せて1パットならパーである。2オン2パットだけがパーではないのだ。プロのゴルフは結果がすべて。過程は問題ではない」
もちろん勝負がかかったホールではナイスショットを連発してバーディを奪ったし、林からグリーンを捉えてバーディを奪うことも多かった。
パーが拾え、バーディが奪えたのもパットが上手かったからだ。ヘーゲンは世界最高のパットをすると言われていた。それも難しいラインになればなるほど入れ込んだ。もちろんストロークの良し悪しなどヘーゲンにはどうでも良かった。カップインできるパットであるかどうかだけが重要だったのだ。

プロの地位向上に情熱を注ぎ、全英オープン優勝で多大な貢献を果たす

ヘーゲンがプロゴルファーになった頃はゴルフを生活の糧にすることは卑しいと見なされていた。ゴルフは英国発祥のスポーツで貴族階級が嗜んできただけに、プロゴルファーは彼らの召使いだった。
しかし、アメリカではヘーゲンが大活躍してプロゴルフが人気スポーツとなったことで、閉鎖的だったクラブのメンバーたちもプロゴルファーを認めるようになっていった。
ところが英国ではそうしたことはまったくなかった。ヘーゲンが初めて全英オープンに挑戦した1920年、彼はクラブハウスに入ることを許されず、みすぼらしいロッカールームを使うように命ぜられたのである。
「アメリカ代表選手としてはるばる英国まで渡ってきたのに、ひどい待遇だった。英国ではアマチュアはミスターを付けて呼ばれるが、プロは名前を呼ばれるだけ。歴然とした差別があった」
そこでヘーゲンが行ったのはロッカールームを使わず、リムジンで着替えをすることだった。着替えと言ってもホテルでゴルフウェアを着用し、リムジンでシューズを履き替えるだけだったが、それを敢えてクラブハウス正面で行った。運転手にカシミアのコートを持たせ、自分がホールアウトするまでそこで待たせた。自分がアメリカを代表する名選手であることを強くアピールしたのだ。
しかし、この全英オープン初挑戦は54選手中の53位と惨敗だった。だからこそ、ヘーゲンの凄さはその最終日の彼の姿にあった。
「スコットランドの風に翻弄された。私の成績は散々だったが、私は顔を上げ胸を張って、風に向かって堂々と歩いた。決して挫けてはいないことを英国民に知らせたのだ」
事実、ヘーゲンは挫けてなどいなかった。雪辱を誓ったのだ。
「我が国で鍛えてきた高い球筋のショットは何の役にも立たなかった。打ったボールが戻ってきて自分に当たるところだった。この風を征服しなければ全英オープンでは歯が立たない。私は低い弾道をマスターした」
2年後の1922年、ヘーゲンは地を這うようなショットで見事、全英オープンに初優勝した。
「全英オープンに勝ってこそ、風を征服してこそ、真のチャンピオンと言える」
こうして1924年にも全英オープンに優勝し、1928年には3度目の優勝を成し遂げた。このときには英国民もヘーゲンの不屈の精神を讃え、英国皇太子から優勝カップを授与される栄誉を受けた。ゴルフ好きの皇太子はヘーゲンの人柄とゴルフに惹かれ、その後、何回もラウンドをともにし、友情を育んだのである。
ヘーゲンは翌1929年に4度目の全英オープン優勝を果たし、押しも押されもしない正真正銘の大スターとなった。こうして英国でもヘーゲンだけはクラブハウスを自由に使うことを許された。このことが徐々にではあるが一般的な常識となり、プロゴルファーが卑しい身分ではなく、皇室をも認めるスポーツマンになっていったのである。
今やプロゴルファーは巨万の富を稼ぐ憧れの職業となった。その始まりはヘーゲンの不屈の反骨精神がもたらせたものだったのだ。

プロたる者、自分こそプロゴルフ界を隆盛にするという気概を持て

日本のゴルフ界は一昔前、アマチュアは中部銀次郎が牽引し、プロゴルフは尾崎将司が人気スポーツに押し上げた。さしずめ中部はボビー・ジョーンズであり、尾崎将司はウォルター・ヘーゲンである。長い間、尾崎人気でプロゴルフ界は隆盛だった。しかし、尾崎が第一線を退いてからは、プロゴルフの人気は女子プロ界に取って代わったと言ってもよいくらいだ。
今こそ、日本の男子プロたちは、このウォルター・ヘーゲンの本を読み、プロゴルファーとはなんたるかを認識して欲しい。そして、日本の男子プロゴルフ界を再び活気づかせる大いなる気概を持って欲しいと願う。
それには自分さえ良ければいいとは決して思わないこと。稼いだ金は天下の回り物と思ってすべからずゴルフ界のために使うこと。強いてはそれが自分に返ってくるのだ。さらにヘーゲンがキャディに手厚い報酬を与えたように、キャディに対しては手厚くねぎらって欲しい。キャディこそが、過酷なプレー中の唯一の身方なのだから。
そして、試合では常にエキサイティングなプレーを見せて欲しい。ヘーゲンはここ一番の勝負所でイチかバチかのショットを成功させた。それができたのは技術力ではなく集中力と精神力であったことを知って欲しい。それらをもって奇跡的なショットを成功させて、ゴルフファンを熱狂の渦に巻き込んで欲しいものである。
プロゴルファーを自認するのであれば、高級なゴルフウェアをシックに着こなし、平然と高級車に乗り、顔を上げ胸を張ってプレーして欲しい。2位などいらないと言いきって、大胆なプレーを選択して成功させて欲しい。サラリーマンのような安心安定を求めるゴルファーはプロゴルフ界には必要ないのである。ヘーゲンのようなエキサイティングなプロになってもらいたい。
日本のプロゴルフ界だけでなく、世界のプロゴルフ界は今こそ本物の大スターを求めている。奇跡的なショットを決め、劇的な逆転勝利を収めるプロゴルファーである。いつもニコニコ上機嫌でファンを愉しませるエンターテイメント性溢れるプロゴルファー。まさにヘーゲンのようなプロゴルファーが今こそ待ち望まれているのだ。プロゴルファーを自認する選手は誰もがヘーゲンのようにプレーしてもらいたい。なぜなら、それがプロたる者の務めだと思うからである。

文●本條強(武蔵丘短期大学客員教授)