2023.10.18

[vol. 27]

心に残るゴルフの一冊 第27回


『リンクスランドヘ ゴルフの魂を探して』
マイクル・バンバーガー著 管啓次郎訳 朝日出版社
ゴルフ上達のための
キャディ体験とリンクス巡り

 本書『リンクスランドヘ(TO THE LINKSLAND)』のことは長い間忘れていた。ゴルフ本のこのコラムを書いていくうちにふと思い出したのである。この本が刊行されたとき、ロス在住のゴルフ好きの友人が「とても面白い本だよ」と言っていたのだが、著者の名前も知らず、単なるアマチュアのスコットランド旅行記だと思い、そのまま読まずにいたのである。ところがこの本は単なる旅行記ではなく、ゴルフ上達のための神髄が書かれているという。となれば私が編集長をしていた『書斎のゴルフ』、「読めば読むほどゴルフが上達する」というスピリッツに合致する本に思え、俄然興味が湧いたのである。
 まずはこの本『リンクスランドヘ』の概略を紹介しよう。この本は著者のマイクル・バーガーというアメリカ人のゴルフ体験記である。彼は中学時代にのめり込んだゴルフが大人になった今も虜になっている一介の新聞記者。高校を卒業するまで進化を遂げていたゴルフが、大学に入ってからぷっつりと停滞、それは社会人になってからも同様で、やってもやっても上手くなれず、大学入学前の70台のスコアを再度出すことのできない90台前後が普通となってしまったゴルファーである。本人曰く「13年間スランプ状態」で、何とか脱出したいと常々思っていた。
 しかし、ありきたりのゴルフスクールに入る気はしない。商業主義の画一レッスンには何の魅力も感じなかったからだ。とは言え、自力ではスランプ脱出はもはや無理。おそらくゴルフ上達本はくまなく読んだだろうし、プロゴルファーのゴルフも自己分析して取り込もうとしていたことは間違いない。それでもシングルハンデは疎か、アベレージゴルファーに甘んじていたわけである。彼は思う。
その原因は何か。
「ゴルフの神髄がわかっていないからだ」
 ではその神髄はどうすれば手に入るのか。そこで考えたのが、1つはプロゴルファーのキャディとなって彼らの内側に入り込んで上達のヒントをつかむということ。もう一つはゴルフの原点が存在するスコットランドのコースを巡るということだった。しかしきっかけをつかめずに悶々としていたある日、彼はかねてからの恋人と結婚したのだが、彼女は根っからの自由人であり、冒険好きだった。新婚旅行先のハイチでのこと。彼は言う。「これからどうしようか?」。彼女は言う。「冒険あるのみ」。そこで彼は会社を1年間休むことにし、新妻と一緒に欧州ツアーに出かけ、プロキャディをすることに決めた。その後、スコットランドのリンクスを旅することにしたのだ。
 時は1991年。彼、マイクルはその6年前に米国PGAツアーのキャディを体験していた。そのときもスランプ脱出を願ってのことだったが、その希望は報われることはなかったものの、『ザ・グリーン・ロード・ホーム』という本に体験記を纏めることはできた。そのときおそらく彼は自分のゴルフと米国のゴルフとの間に心の溝を感じたのではなかっただろうか。肌が合わない何かを感じたに違いない。それが欧州プロゴルフツアーへと向かわせたと言えよう。
 その頃のアメリカのプロたちは商業主義にどっぷりと浸かり、皆同じような綺麗なスイングをして、ほどよく良いスコアを上げることができていた。しかし、強烈な個性は欠如していて、ニクラウスやワトソンのような傑出した選手は出ていなかった。(よってその後のタイガー・ウッズの出現はアメリカ人にとって待望のスーパースター誕生であったのだ)。
 その一方でヨーロッパのプロたちは個性に溢れていた。その代表者がスペインのセベ・バレステロスである。燃えるマタドール!強烈にボールを叩き、そのショットは曲がり倒すが、どこからでもグリーンを狙いバーディチャンスにしてしまうミラクルゴルフ。実際セベがマスターズを制してから英国ではサンディ・ライルやニック・ファルドがメジャーを制し、ドイツではベルンハルト・ランガー、スペインはホセ・マリア・オラサバルが登場していた。彼らの画一的ではない、しかしもの凄く強いゴルフにマイクルは魅了された。そこで今度は欧州ツアーでキャディをしようと思ったのである。
 おそらくマイクルはこう思っていたはずである。
「スイングは教科書のようなスイングが良いというものではない。個性的であっても自分のスイングが確立されていればそれでいい。ならば自分のスイングを変える必要はなく、今のスイングのまま上達は可能なはずだ。その神髄をつかみたい。それには欧州ツアーのプロからその神髄を学ぼう。さらにはゴルフの原点であるスコットランドに赴き、そこに住むゴルファーと一緒にプレーしてゴルフの神髄をつかもう」
 それらがこのゴルフの旅の目的であったのである。

マイクル、ピーター・テラヴァイネンのキャディとなる

 第1部は著者のマイクルが欧州プロゴルフツアーのキャディとなる話である。彼はフィンランド人の血を持つアメリカ人プロ、ピーター・テラヴァイネンに「キャディをさせてください」という手紙を書く。その理由は本書では明らかにされていないが、ピーターに帯同キャディがいないことはわかっていたし、アメリカPGAツアーでは上手く行かずに欧州ツアーに腰を据えたプロであり、「鞭打ちショット」と言われる個性的なスイングの持ち主だったからだろう。コーチもおらず、マネジャーもいなかった。
 しかし、決め手はピーターがイエール大学出身のインテリだったからに違いない。マイクルはピーターと同じIVYリーグのペンシルヴァニア大学出身だった。一流企業に勤められるイエール大学出身者がなぜに海千山千のプロゴルフの世界に飛び込んだのか、マイクルはそれが知りたかったのだろう。そこにゴルフの魔物的な魅力が潜んでいるに違いないからだ。
 ピーターはイエール大学で全米代表選手に3度も選ばれているし、4年生時にはキャプテンだった。ピーターはプロゴルファーになりたかった。そこで大学を卒業後、就職せずにフロリダのリゾートコースのバーで働き、そこのプロからゴルフを習い練習ラウンドを行った。そのプロはピーターの癖のあるスイングを見て言った。「あんたのバックスイングはこれまでに見た誰よりもいい。他人が何と言ったってぜったいそのやり方をやめなさんな」と。この言葉がピーターに「このままでいい」という自信を与えたことは確かだろう。ピーターはPGAツアーのライセンスを獲得してツアープロになった。1979年のことだった。
 米国から欧州ツアーの選手となったピーターはかろうじてシードを保っているプロだった。予選落ちが半分くらいあったが、それでも10年も戦い続けていた。ピーターのプライドは「ゴルフだけで食っている」というものだった。クラブもウェアも契約せず、賞金だけが食い扶持。広告塔になって余計な仕事が増えることを嫌った。純粋にゴルフだけに人生の的を絞って全精力を傾けたかったのだ。とはいえ、ツアー生活は経済的に厳しく、キャディも雇わず安ホテルに泊まり、キャディと一緒にバスで移動することも厭わなかった。非常にピュアな選手だということになる。そうしたプロフェッショナリズムをマイクルは敬愛していた。
 マイクルが欧州ツアーのキャディとなったのは2月末の地中海オープン。次のバレンシア諸島オープンまでの2試合をピーターはマイクルと契約した。何とかプロキャディを勤め上げ、その翌週からもピーターのバッグを担ぐことができたマイクル。徐々にピーターの信頼を得て、クラブ選びの相談にも乗ることができるようになり、二人の息が合ってくる。予選落ちがなくなり、賞金が手に入る。フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、イングランドと渡りながら、上位にも食い込んでいくピーター。
 ピーターの夢は優勝である。ピーターはプロになって以来、ただの一度も勝っていなかった。ピーターの夢はマイクルの夢にもなっていく。4月、5月、6月と休まずに戦う二人は勝利がつかめるチャンスもあった。しかし、肝心要のときにショットを曲げて涙を呑んだ。
 勝てる選手と勝てない選手の差は何か。ショットを打つときに考えてしまう選手と何も考えない選手。勝負時がわかる選手かわからない選手。勝負時のパットを入れる選手と外す選手。こうしたことをピーターは克服して乗り越えていけるのか。マイクルはキャディの合間に欧州ツアーの偉大なる男、セベ・バレステロスに話しかけ、マスターズを制したイアン・ウーズナムにインタビューを求めた。彼らの強さの秘密を知るために。
 マイクルはピーターの役に立ちたいと思うが、プレーするのは選手本人である。そのジレンマを抱えながら、ツアーを離れることにしたマイクル。1年の休暇の半分をスコットランドに行ってゴルフの魂を学ぼうという計画だったからである。
 ピーターは初優勝こそなかったが、獲得賞金はこれまでのどのシーズンよりも良かった。「それは専属キャディを雇ったからだと思う」とマイクルに感謝した。よって、マイクルが離れた後、ピーターは別のキャディを雇った。
「プロである以上、金を稼ぐことが使命だ。そのためには投資も必要だ」
 イエール大学で経済学の学士号をとったピーターならではの言葉だった。
 ここまでで第1部は終了するわけだが、このキャディ編でマイクルがゴルフ上達においてつかんだことは明らかにされない。というよりもマイクル本人がまだわかっていなかったということだろう。実際にはゴルフにおける神髄の一つは得ていたのだと私は確信しているが、それは第2部を読むと皆さんもきっとわかることだと思う。

スコットランドでの貴重なレッスンとリンクスでのプレー

 スコットランドオープンで最後のキャディを務めた後、マイクルはクリークゴルフクラブのプロ、ジョン・スタークを訪問する。スタークは神秘主義者で世捨て人めいた所があり、教えを請えることができたらかなりの幸運だと、マイクルは古いイギリスのプロから聞いていた。「人に対して同じ教え方はしないし、ゴルフの表も裏も知り尽くしている人間だ」とも聞かされていた。マイクルはスタークに「生徒になりたい」という手紙を書いていた。
 「ちょっとお喋りに来たまえ」と言われて赴けば、スタークはまさに話だけをした。マイクルの「上手くなりたいんです」の訴えに「価値ある目標だ」とだけ答え、その後はスコットランドの原初のゴルフスタイルを述べ、アメリカのゴルフを揶揄し、スコットランドのゴルフも変わったと話す。この日は僅かなレッスンも付けなかった。
 私にとって面白かったのはそのスコットランドの原初のゴルフ。それは風に向かって低くランの出るフックを打つことであり、素早くフラットな手打ちのスイングと手首を使うパットを行うことであり、砂を噛ませずに打つバンカーショットであり、どこからでもチップショットを打ち、グリーンの外20ヤードからパターでカップを狙うというゴルフスタイルであった。
 スコットランドでは村の人間は老若何女のほとんどが気晴らしにゴルフを行う。それも月曜から土曜まで毎日仕事の後にプレーし、競うのは相手だけであり、スコアは付けないというものだった。それを「国民のスポーツ」とスタークは言った。そして、そうしたスコットランドのゴルフを旅して知りなさいとマイクルに告げたのだった。最後にこう言った。
「旅の途中でまた寄ってみてくれ。君が何を学んだのか興味がある」
 こうしてマイクルはゴルフの聖地、セントアンドリュースに向かった。いきなりオールドコースを回るのは神様への冒涜と考え、最初はニューコースを周り、設計したオールド・トム・モリスに思いを馳せる。最後にオールドコースを回ろうと思って周辺のコースを巡るが、思うようなプレーはできない。そうした最中にオールドコースを回る誘いを受け、プレーすると惨めな95というスコアだった。
 マイクルはスタークに助けを求めた。スタークがまず言った一言は「カモメの声は聴いたか」である。つまり、プレーにゆとりがあったか、楽しもうとしたかを問うているのだった。その後、遂にレッスンが始まった。スタークは大昔のヒッコリーシャフトのマッシーアイアンと昔と今のボールを抱えて練習場に向かったのである。
 ヒッコリーのシャフトは柔らかい。故にヘッドの重さを感じてゆっくりと振らざるをえない。いつも激しくボールを打っていたマイクルは戸惑い驚き、やがてスイングの感触をつかんでいく。そして、スタークは言うのだ。
「マイクル、音を聞きなさい。シャフトが風を切る音、ボールをヒットするインパクトの音。ボールの空中での音」
 この中で大事なのはインパクトの音である。
「いい音がするようにクラブをリズミカルに振りなさい」
 たったそれだけのことで、マイクルのオールドコース2度目の挑戦は45・39の84。このスコアは迷える子羊のマイクルにとって素晴らしく良いものだった。しかもヒースとハリエニシダが生えるブッシュだらけのコースで、ボールを1つもなくさなかったのである。
 その後、一流プロでもなかなかプレーが許されないミュアフィールドの歴代の支配人に会ったり、グリーンキーパーに会ったりして、スコットランドのリンクスとはいかなるものかを知ろうとする。そうするうちにスタークからクルーデン・ベイ・ゴルフクラブに行ってみよと勧められる。リンクスランドがさらに理解できるというわけである。このコースで何度もプレーした最後は13年ぶりの70台が出るところだったが、4パットして81となった。81のうち、何とパット数は40であった。
 マイクルはスタークにパットの教えを請いに行く。スタークの教えはショットの時と変わらなかった。パターでのインパクト音を聞け、いい音がするように打ちなさいということだった。ショットの時もスイングの形(フォーム)のことは何一つ言わなかったが、パットにおいてもストロークのことは一切言わない。「気持ちの良い音がすれば技術は問題がない」ということなのだった。
 スコットランド人は今も昔も詩を好む。それも郷里の詩人、ロバート・バーンズの詩を誰でもが口ずさむ。ゴルフにおいても、予想外のことが起きることを詩に例える。どこに跳ねるかわからないバウンド、いつどんな風に吹くかもわからない風、ありそうでなくなるボール。セントアンドリュースの支配人はマイクルに言った。
「オールドコースの究極の美はフェアでないこと。人生に似ていること。起きたことをすべて受け入れる。選択の余地はないのです」
 そしてバーンズの詩をマイクルに教える。
<鼠と人が考え抜いた計略も しばしば上手く行かないもの。
 そして悲嘆と痛みだけが残される 約束された喜びの代わりに>
「それこそオールドコースなのです。百年前のオールドコースであり、今日のオールドコースでもある。あなたがここにいる理由であり、オールド・トム・モリスが風と友に忘れ去られることなく名をとどめている理由なのです」

砂丘のリンクスコースは羊たちが造る

 パットのレッスンの翌日、スタークはマイクルを秘境、アウフナフリーに連れて行く。ここは羊飼いでゴルファーだったジョン・ボロックが6ホールを手作りしたコースとは呼べないようなコースだった。まさに羊たちのための砂丘兼牧草地であり、マイクルはここで羊の糞と丸石とタンポポの間にティを刺して羊の群れの中にボールを打っていった。なぜにそんなことをスタークはさせたかったのか。
「ここでは羊が草を食べてフェアウェイにし、糞をして草に肥料を与え、風避けのためにバンカーを掘る。ここは羊たちの作ったコースであり、自然のコースなのです。つまり、ここはゴルフの原点であり、ここでゴルフをすれば原初のゴルファーになれるのです」
 さらにマイクルはスタークに勧められてマフリハニッシュというコースに行く。ここは野生の蘭とタイムの甘い香り、さらには潮の香りが漂う、人に知られていない素晴らしいコースだった。初めて訪れたオールド・トム・モリスは「全能のお方がゴウフ(gawf)のことをお考えになっておられたに違いない」と言ったように、まったく自然のコースなのである。
 マイクルはすっかり気に入って何泊もするが、泊まる所はBBであり、食事はコースのクラブハウスで行った。夕食を食べてスコッチを嗜む生活。それこそ本物のクラブライフだった。ゴルフの神髄がわかりかけてきたマイクルは、このコースのラストラウンドで遂に78であがり、13年ぶりの70台を出すことができたのである。
 スコットランドのゴルフ旅の最後はロイヤル・ドーノッホ・ゴルフクラブである。今でこそ有名になったが、一時は幻のコースと言われた。今から40年前、分厚い英国のゴルフ場ガイドブックにはこのコースが載ってはいたものの、コースの写真はなくイラストだった。ネス湖のそばにあるこのコースに私は古代を見る思いだった。
 マイクルはこのコースのメンバーでありキャディのサンディ・パイピーメ・イズソンと知り合い、古代のスイングとショットを見せてもらう。低くランの出るフックのパンチショット。マイクルはそのショットを真似するが、それはテラヴァイネンのスイングにも共通するものだった。
 サンディがマイクルに言う。「ゴルフコースは聖域だ。そしてゴルフは希望だ」と。「今日のゴルフには何が待っているかと考える、それがゴルフである」と。
「希望のない所にゴルフはあり得ない」と言い切るのであった。

 こうして第2部のスコットランドのリンクス物語は終わるわけだが、私がさらに付け加えたいのはテラヴァイネンのことである。マイクルがキャディをした1991年の秋にテラヴァイネンはオーストラリアツアーの一つ、シンガポールPGAチャンピオンシップにプロ人生初となる優勝を遂げる。95年には欧州ツアーの一つ、チェコオープンに優勝し、翌96年には日本ツアーに挑戦、見事日本オープンに優勝してしまう。40歳での快挙であり、遅咲きとは言え、素晴らしい晩年のゴルフ人生であった。
 さらにこの本において言うならば、翻訳が直訳のような部分が多く、日本語として成立しておらず、意味が通じにくい箇所が散見された。また、ゴルフ用語も正しく訳されてないところもあり、日本の読者を迷わせる箇所も多かった。さらに現地の発音を重んじてカタカナ表記にしているように思えるのだが、スコットランド語は現地発音と異なっているものが多い。アイラ島をイズレーと言ったりするように。訳をした管氏はアメリカで教鞭を執っていたし、現・明治大学の教授であるからして、このような訳になるのはかなり不思議である。素晴らしい内容の本だけに、現在新刊を買えないこともあり、新訳を行って刊行したいものだと密かに希望している。
(完)

文●本條強(武蔵丘短期大学客員教授)

※本書は1985年に刊行されました。新刊はないため、amazon などで中古本が購入できます。