2018.12.7
ゴルフ暦でいうなら、国内の女子、シニアツアーが男子ツアーよりも1週間早くその年の幕を閉じる。トリを務めるのが男子ツアーのゴルフ日本シリーズ、そして大トリに控えているのがツアー対抗戦「3ツアーズ チャンピオンシップ」だ。
男子ツアー代表選手は緑色、女子ツアー代表選手は赤色、シニアツアー代表選手は青色と、それぞれのツアーカラーのベンチコートを纏って開会式に登場する。それは大晦日の紅白歌合戦のようで、その年最後のトーナメントの色合いが強い。ゴルフ風物詩だと思う。
ツアー終盤戦ともなると、賞金王、賞金女王争いとともに、来季の賞金シード権争いが試合展開の記事と並行して取り扱われるようになる。男女ツアーの最終戦は、その年のトーナメント優勝者や賞金ランク上位者ら、選ばれし選手だけが出場できる。それだけに、最終戦出場資格のない選手たちにとっては、その前試合が実質上の最終戦となるのだ。
男子ツアー選手のひとりと、こんな会話を交わした。「今季の目標ですか? もちろん3ツアーズに出場することですよ」。そんな返答を聞いて驚いた。「最終戦の日本シリーズ出場じゃないの?」と尋ね返したくらいだ。「日本シリーズ?それは出場して当然でしょ。だって賞金ランキング30位以内に入っていたり、1勝以上挙げていたりしたなら出場できますからね。その点、3ツアーズは賞金ランキング上位での6人枠、それこそ選ばれし選手ですし、一年間活躍した証とも言えるのではないでしょうか」。なるほど、なるほどね、と納得した。その選手は、3ツアーズで緑色のベンチコートを着ることを目標にして、ツアーに臨んでいたのだった。
男子ツアーの実質上の最終戦であるカシオワールドオープンは、ユニークなフィニッシュフォームのパフォーマンスでギャラリーを喜ばせる韓国の崔虎星が5年ぶりのツアー通算2勝目を飾った。
その開催週のことだった。僕のフェースブックに6年前のページが、奇遇にもプレイバックされていた。賞金ランク75位で迎えた自身にとっての最終戦で9位に入り、土壇場で初シード権を獲得した浅地洋佑の写真だった。人類史上最速スプリンターのウサイン・ボルトのように、天に向かって弓矢を放つようなポーズを浅地は取っていた。顔つきは、まだ少年のまま。当時19歳。将来を嘱望されて11年にプロ転向を果たし、翌12年6月には下部ツアーながらISPS・CHARITYチャレンジトーナメントで初優勝を遂げていた。その勢いに乗っての初シード獲得だった。最終戦では決勝ラウンド2日間でボギーはわずか一つ、ともに67の好スコアを叩き出す。最終日最終ホールでのバーディー奪取で賞金シード圏内に滑り込む。「持っている選手」は、やっぱり違う。そう感じたことを記憶している。
そんな僕は悪運が強いのか、最終戦が始まる前日、浅地にインタビュー取材の依頼をしていたのだ。浅地が初シード選手になったことで記事の重みは増した。帰宅途中の浅地を羽田空港まで出迎えに行き、浅地の母・伸子が運転する車の後部座席に同乗させてもらい、車中でインタビュー取材し、自宅近くでボルトの「勝利ポーズ」を撮影したのだった。 しかし、ツアーという「大海」は、決して凪(なぎ)ではなかった。順風満帆に船出したようだったが、現実は厳しかった。翌年にはシード落ちを喫し、不振の荒波に浅地は揉まれ続ける。
「思うようなショットが打てなくなったというよりも、パットが打てない、入らない。パットイップスに襲われてしまったのです」。当時を浅地は振り返る。パットに掛かる負担を少しでも減らしたい思いから、ピンに少しでも絡めようと無理なアイアンショットを放つ。ドライバーショットでは10ヤードでも、せめて5ヤードでも飛距離を稼ごうとしてしまう。トップスイングでシャフトのしなりを待ち受けるような浅地独特のスイングは、いつしか消え失せてしまったように思えた。
イップス。ショットでは、アドレスしてから体が硬直してバックスイングができないケースもあれば、トップスイングまで振り上げたクラブを下ろせない症状もある。パットではパターを動かせなかったり、カップまで50センチの距離にも関わらず、バカでかい振りでボールを10メートル以上も打ったりする。その症状は数えたら切りがない。イップスが完治するのは稀であり、症状が悪化してツアーから退いた選手は少なくない。今年のツアーでシード落ち選手の中にも、実はイップスに襲われたのが原因の選手もいるのだ。「イップスに関する本を読んだり、実際にイップスを克服した選手の話を聞いたり、治療法の勉強もしました。そのお陰で症状が次第に治まり始めて来たのです」。
数年前とは違って、今年の浅地は表情に明るさが戻っていた。ドライビングレンジで見るスイングもまた、かつての輝きがあった。トップスイングが浅地本来のそれに戻っていた。
「オノフのドライバーを使わせて頂くようになってから、ショットの方向性が安定し、曲がる不安がないから、しっかり振って行けるので、飛距離も伸びるようになりました。アイアンもイメージ通りのショットを具現化してくれる。そして、パットイップスが治まったことで、グリーンに上がるのも苦にならない。ゴルフが以前よりもずっと楽しいんですよ」。弾ける笑顔で浅地がそう話してくれたのは9月下旬の東海クラシック初日の前日のことだった。結果は23位タイ。その3週間後には、こう口にした。
「日本オープンに出られなかったので、今週はその分も頑張りますよ。うまく調整してこれましたからね」。ブリヂストンオープン。大会初日2位タイの好発進をし、最終的には7位タイに終わったものの、獲得賞金476万2500円を上積みし、来季の賞金シード獲得ランプを点滅から点灯にしてみせたのだった。
「あれから6年よね。いろいろあったけれど、お陰様で再シード入りができました。有難うございました」とクラブハウスで、浅地の母・伸子からそう声を掛けられた。
「6年前とは内容が違いますよ。以前は何となく取れた。今回はシード権を掴み取ったのです。勝負は来年ですよね。まだ優勝という目標があるでしょうからね」と、僕は応えた。クラブハウスを秋の夕陽が染め始めていた。
伸子は力強く頷いた。そして上げた顔。喜びの涙が流れ落ちるのを抑えたその眼は、夕陽よりも赤かった。
来年は一回りも、ふた回りも大きくなった再シード選手、浅地のゴルフが楽しみだ。
(文中敬称略)